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皇紀2685年(2025)8月

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マオ

 社会に動乱を起こすことや人民の殺戮に対して無頓着なところは、スターリンも毛沢東も似たような体質を持っていた。そして容赦なく自己利益のみを追求し、そのためには同志であれ利用し殺戮した。

 毛沢東はソ連のコミンテルンからの指示に従順であったために中国共産党の幹部に抜擢された。他の党員はソ連の支配を嫌っていた。

 国民党を率いる孫文は清朝政府を倒すにはソ連の協力が必要として資金や人材・兵器などの提供を求めた。そこでソ連は国民党を内部から操るため、中国共産党員に国民党へ入党するよう指示を出し、毛沢東もそれに従った。第一次国共合作である。ソ連の大物工作員だったミハイル・ボロディンも孫文の主席政治顧問として派遣された。孫文の死後、後継者となった汪精衛に贔屓された毛沢東は汪精衛の代理として活躍したが、実態はソ連の操り人形だった。
 国民党のソ連人顧問は国民革命軍を使って中国でソ連式の暴力革命を起こそうとしていた。そのため中国全土で社会秩序が崩壊し暴力が噴出した。ごろつき連中が富農や知識人を襲って残虐行為に及ぶと、それを見た毛沢東は自身の中に眠っていたサディスティックな性向を目覚めさせた。そしてそれを見たソ連はそれこそソ連式の社会革命モデルにぴったりだとして称賛した。しかし中国共産党の創立者である陳独秀は暴力革命に反対していた。

 ソ連式の暴力革命に国民革命軍兵士も反発した。折りしも北京政府の官憲がソ連公館に踏み込みソ連が政府転覆に加担していた証拠が多数押収されたことで、国民革命軍総司令だった蒋介石は共産党と袂を分かち、赤狩りを行って共産党員を逮捕あるいは殺害した。従来蒋介石は国民党左派と思われていたが、ソ連を訪問した3ヶ月間に根っからの反ソになった。特に「階級闘争による革命」という手段に反感を抱いた。汪精衛も蒋介石に従った。以来蒋介石は国民党の党首となった。

 毛沢東は中国の皇帝になるという個人的な欲望を満たすために、共産党の紅軍とソ連から提供される軍資金を利用しただけのことである。イデオロギーなどどうでも良く、皇帝になれるのであれば国民党でも良かったのである。

 張作霖爆殺はソ連情報機関の資料によるとスターリンの命令でナウム・エイティンゴンが行い、日本軍の仕業に見せかけたものであった。ナウムは後にトロツキー暗殺に関与した人物でもある。息子の張学良は父の後を継ぎ中国東北部を支配していたが、共産党と密かに通じてソ連の支援を得て蒋介石に取って代わろうと画策していた。

 1936年、スターリンは中国を統一できる力を持っているのは蒋介石だと断じ、共産党に国民党と同盟して抗日戦に当たれと命じた。第二次国共合作である。これは日本軍の進路をソ連に向けさせないための重大な方針転換であった。しかし蒋介石に取って代わって中国を支配したがっていた張学良には伝えなかった。第二次国共合作は1938年まで続いたが、毛沢東がスターリンの指示を無視して方針転換をしたため、1939年以降は国民党に対し攻勢に転じた。

蒋介石の妻である宋美齢の姉、宋慶齢は共産党のスパイであった。

 宋美齢もアメリカの社交界でアメリカの抗日参戦を促した反日主義者であった。しかし終戦で日本軍が退却した後に国共内戦となってからは反共の闘志となった。姉の宋慶齢は中華人民共和国建国後、名誉国家主席となっていた。蒋介石亡き後、未亡人となっていた宋美齢は台湾からアメリカへ移住し、105才で死んだ。

 八路軍とは国共合作時代に延安を本拠地とする共産党軍46,000名に名付けられたもので、「国民革命軍第八路軍」が正式名である。

周恩来は毛沢東の共犯者である。

 毛沢東は25年間風呂もシャワーも使わなかった。代わりに使用人が毎日熱いタオルで全身を拭き上げた。

 毛沢東は愚民政策を採り人民を脳死状態に置いた。それは潤いを排除した社会、文明を消し去った社会、感受性を圧殺した社会、黙って命令に従うロボット人間の社会を作るためである。

文化大革命において毛沢東は「旧文化を殲滅せよ!」と号令した。

 劉少奇夫妻が造反派に批闘大会で辱められ痛めつけられた時、造反派は6才の娘を含む劉少奇夫妻の子供達に見学させた。

 こんなことを平気でやる中国人の血に流れる精神と人格を思い知れ。