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皇紀2685年(2025)8月

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打倒中国共産党(WEB)1

中国共産党の犯罪

■チベットへの侵略と虐殺
 中国共産党は半世紀以上にわたる残虐行為を認めないどころか、「かつてのチベットは5%の僧侶・貴族・地主が95%の奴隷を搾取していたが、中国共産党がチベットを平和解放し、チベットに幸福と繁栄をもたらした」という幼稚なストーリーを歴史として宣伝している。

■法輪功学習者に対する残虐行為
 江沢民によって弾圧が開始され、その迫害・拷問は凄まじく、とても21世紀の文明社会とは思えない。

■東トルキスタン侵略
 大東亜戦争後に中国に侵略され、ウィグル自治区となっている。計45回に上る核実験をここのロプノールで行っている(因みにアメリカは南太平洋はじめ至る所で1000回以上行っている)。この地域は天然資源が豊富で、石油・天然ガスの埋蔵量は中国支配地域の約30%を占める。現代でも東トルキスタン国民に対する過酷な拷問は続いており、アメリカへ亡命した人権運動リーダーは、中国の差し向けたテロリストにより暗殺未遂の被害にも会っている。

■土地改革と鎮圧反革命分子運動
 中国人こそが中国共産党による最大の犠牲者である。殺された中国人は8千万人にのぼる。間違いなく人類史上最悪の殺人集団だ。1951年10月まで続いた鎮圧反革命分子運動では71万人が虐殺され、129万人が逮捕された。共和国建国から2年で土地改革と鎮反運動によって300万人が虐殺された。その3年後には粛反運動(粛清反革命分子運動)で逮捕130万人中処刑者8万人に上った。普通の国だと8万人が虐殺されれば恐ろしい暗黒時代とされるが、中国共産党にとって8万人程度の虐殺は日常茶飯事であり、大きく取り上げることではないのである。

■1957年の反右派闘争
 1957年末までに55万2877人が右派分子という無実の罪を着せられ、市民権剥奪、辺地での強制労働という生き地獄を経験することとなった。集団虐殺こそなかったが、右派分子とされた人々が名誉回復するには、20年後の改革解放まで待たなければならなかった。そして生きて名誉回復できたのは20数万人に過ぎず、残りの約30万人は生命を奪われたと言ってもいい。また1980年の時点で最終的に90人の右派分子が名誉を回復することができなかった。
 毛沢東は1958年5月8日の会議で、「秦の始皇帝が(焚書坑儒で)何をした? 彼は460人を処分したに過ぎない。私は始皇帝の数百倍の知識人を処分したのだ。私のことを始皇帝みたいだと言って罵るのでは不十分なのだよ」と言って自ら大笑いしたという。

■大躍進運動
 1957年11月に毛沢東はソ連でフルシチョフと会談し、ソ連が15年で米国を追い越すという目標を掲げていることを知った。前月に人類史上初の人工衛星打ち上げに成功して宇宙開発でアメリカをリードしたソ連は、国力においてアメリカを追い越すという自信があったのかもしれない。だが毛沢東は挑発に乗るかのように「中国は15年で鉄鋼などの主要工業生産高で英国を追い越す」という目標を掲げてしまった。何の実現性もない毛沢東の気まぐれが、全ての悲劇の始まりとなった。
 目標が達成できないことは目に見えていたが、中国共産党の地方幹部にとって毛沢東が掲げたノルマの未達成は生命の危険に関わる大問題であったため、翌年秋に地方幹部や人民公社の幹部は一斉に党中央に対してノルマ達成を報告した。すると党中央は全国の人民公社に穀物の公糧供出量の倍増を命じた。実際には生産倍増などできていないのに、水増し報告をした以上命令に従わざるを得ないので、必然的に人民の食糧が欠乏することになった。
 そのような状況下1959年に毛沢東は全農民を動員して鉄鋼生産に全力を挙げるよう命じた。だが専門家もおらず設備もなく、原材料も十分確保できない中で良質な鋼鉄が作れるはずもなく、生産された鉄の大半は粗悪品で膨大な資源を浪費する結果となった。また製鉄事業で大量の木材が伐採されたために中国の北部は禿山だらけとなってしまった。そのせいで今でも中国では毎年洪水が発生している。
 そして1959年夏、ついに大飢饉が全国を襲った。秋の収穫も不作で飢饉をさらに深刻化させた。それに先立つ1959年7月の中国共産党政治局拡大会議では彭徳懐国防部長が大躍進運動の失敗を取り上げ、他の出席者も大勢が支持を表明した。しかし毛沢東は彭徳懐の主張を党に対する攻撃、右傾機会主義として激しく批判したため、彭徳懐を支持していた出席者も一転して彭徳懐を批判するようになった。すでに毛沢東に逆らえるものは誰もいなかった。この会議で毛沢東の政策を修正することができていれば、大躍進運動による悲劇は1年ほどで乗り越えることができただろうが、誰も毛沢東に逆らえず、悲劇はますます深刻化、長期化することとなった。一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増し成果を報告した。そして報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていった。
 こうして大飢饉は1960年も1961年も継続し、少なく見積もって3千万人という人類史上最大規模の餓死者を発生させた(実際は4千万、5千万、6千万という説もある)。飢餓線上にいたものは数億人に及んだはずである。しかも驚くべきことに、数千万規模の餓死者が発生していたにも拘らず、政府は3年連続で穀物を大量に輸出していた。1958年に266万トン、1959年に419万トン、1960年は265万トンである。1960年といえばすでに大飢饉の発生を把握していたにも関わらずである。ここまでくると大躍進運動は人民の大量虐殺といっても過言ではなかろう。
 心底飢えた時に人間がとる行動は、平時の人間の想像を絶する。人々は自分の子供を他人の子供と交換して食べた。さすがに自分の子供を食べるには忍びなかったのだ。調理は脳みそと内臓を取り出し、あとは取れるだけの肉と脂肪を切り取るのである。そして脳みそでスープを作り、内臓や肉を炒め物や煮物にする。こうして1週間ほど凌ぐのである。

 1962年に開かれた中国共産党拡大工作会議で、毛沢東は大躍進運動の失敗に対する自己批判を余儀なくされた。これ以降、劉少奇と鄧小平が中国の経済再建へ向けて舵をとるようになる。共和国建国から13年、中国人民は人類史上経験したことのない悲劇を味わってきた。列強による侵略や、抗日戦争をはるかに上回る悲惨さであった。しかしこの後さらに悲惨で長期間に及ぶ悲劇が待っていた。