ワイルド・スワン
匪賊のやることは残虐そのもの(日本軍のせいにしている数々の蛮行も、そのやり方で匪賊の仕業だとわかる)。
共産中国は1957年が転換点。毛沢東はフルシチョフのスターリン批判で自分も同様に批判されるのではないかと恐れ、周囲の者に強い猜疑心を抱くようになった。
■反右派闘争
毛沢東が反共への恐怖心から無実の者を思想犯として弾圧するに及び、誰もが本心を言わなくなった。
■大躍進運動
毛沢東の現実離れした鉄鋼増産という狂気の経済政策のせいで、農作業が後回しにされた結果、農民を中心に全土で3000万人が餓死した。しかも政府はそれを、ソ連から朝鮮戦争時の莫大な借金をいきなり返せと言われたために食料がなくなったのだ、と言い訳した。
国民党が支配していた時代には、資本家や地主がいかに酷く労働者や小作人を搾取していたかが語られ、日本が支配していた時代には、日本軍兵士がいかに酷く中国人を扱ったかが語られた。
毛沢東は自身を神格化し「皇帝」となっていった。全国の農民が蜂起して腐りきった王朝を倒し、その指導者が賢帝となって新たな絶対政治を行うという、中国の歴史ではおなじみのパターンだ。庶民は「平和な世に犬として生きるほうが、戦乱の世に人間として生きるよりましだ」と思っていた。
毛沢東は自己審問と自己批判の習慣を国民に与え、自分の考えを一切持たない人間にしようとした。
文化大革命はいかなるマルクス主義、共産主義をもってしても正当化しうるものではない。人民の基本的な権利や安全が侵されている。
文化大革命は毛沢東が個人的権力を強化するための粛清だ(スターリンの粛清と同じ)。
修正主義者の系列‥‥‥‥‥劉少奇 → 鄧小平。
改革・解放政策の系列‥‥‥周恩来 → 鄧小平。
毛沢東思想の本質は、果てしない闘争を必要あるいは希求する論理である。人と人との闘争こそが歴史を前進させる力であり、歴史を創造するには絶えず大量の「階級敵人」を製造し続けなければならない。あるいは彼の人格の延長だったのかもしれない。彼は生来争いを好む性格で、しかも争いを大きく煽る才能に長けていた。嫉妬や怨恨といった人間の醜悪な本性を実に巧みに把握し、自分の目的に合わせて利用する術を心得ていた。彼は人民が互いに憎みあうよう仕向けることによって国を統治した。他の独裁政権では専門組織がやるようなことを憎みあう人民にやらせた。だからソ連のKGBのような弾圧組織が必要なかった。
もう一つ無知の礼賛がある。彼は正規の学校教育を憎み、教育を受けた人間を憎んでいた。また古今の優れた才能を蔑視していた。建築・美術・音楽など自分に理解できない分野の価値をまるで認めなかった。そして中国の輝かしい過去の文化遺産まで破壊して、醜いだけの中国を残した。
四人組は本当は五人組である。もう一人は毛沢東であった。
打倒中国共産党
中国共産党の犯罪
■チベットへの侵略と虐殺
中国共産党は半世紀以上にわたる残虐行為を認めないどころか、「かつてのチベットは5%の僧侶・貴族・地主が95%の奴隷を搾取していたが、中国共産党がチベットを平和解放し、チベットに幸福と繁栄をもたらした」という幼稚なストーリーを歴史として宣伝している。
■法輪功学習者に対する残虐行為
江沢民によって弾圧が開始され、その迫害・拷問は凄まじく、とても21世紀の文明社会とは思えない。
■東トルキスタン侵略
大東亜戦争後に中国に侵略され、ウィグル自治区となっている。計45回に上る核実験をここのロプノールで行っている(因みにアメリカは南太平洋はじめ至る所で1000回以上行っている)。この地域は天然資源が豊富で、石油・天然ガスの埋蔵量は中国支配地域の約30%を占める。現代でも東トルキスタン国民に対する過酷な拷問は続いており、アメリカへ亡命した人権運動リーダーは、中国の差し向けたテロリストにより暗殺未遂の被害にも会っている。
■土地改革と鎮圧反革命分子運動
中国人こそが中国共産党による最大の犠牲者である。殺された中国人は8千万人にのぼる。間違いなく人類史上最悪の殺人集団だ。1951年10月まで続いた鎮圧反革命分子運動では71万人が虐殺され、129万人が逮捕された。共和国建国から2年で土地改革と鎮反運動によって300万人が虐殺された。その3年後には粛反運動(粛清反革命分子運動)で逮捕130万人中処刑者8万人に上った。普通の国だと8万人が虐殺されれば恐ろしい暗黒時代とされるが、中国共産党にとって8万人程度の虐殺は日常茶飯事であり、大きく取り上げることではないのである。
■1957年の反右派闘争
1957年末までに55万2877人が右派分子という無実の罪を着せられ、市民権剥奪、辺地での強制労働という生き地獄を経験することとなった。集団虐殺こそなかったが、右派分子とされた人々が名誉回復するには、20年後の改革解放まで待たなければならなかった。そして生きて名誉回復できたのは20数万人に過ぎず、残りの約30万人は生命を奪われたと言ってもいい。また1980年の時点で最終的に90人の右派分子が名誉を回復することができなかった。
毛沢東は1958年5月8日の会議で、「秦の始皇帝が(焚書坑儒で)何をした? 彼は460人を処分したに過ぎない。私は始皇帝の数百倍の知識人を処分したのだ。私のことを始皇帝みたいだと言って罵るのでは不十分なのだよ」と言って自ら大笑いしたという。
■大躍進運動
1957年11月に毛沢東はソ連でフルシチョフと会談し、ソ連が15年で米国を追い越すという目標を掲げていることを知った。前月に人類史上初の人工衛星打ち上げに成功して宇宙開発でアメリカをリードしたソ連は、国力においてアメリカを追い越すという自信があったのかもしれない。だが毛沢東は挑発に乗るかのように「中国は15年で鉄鋼などの主要工業生産高で英国を追い越す」という目標を掲げてしまった。何の実現性もない毛沢東の気まぐれが、全ての悲劇の始まりとなった。
目標が達成できないことは目に見えていたが、中国共産党の地方幹部にとって毛沢東が掲げたノルマの未達成は生命の危険に関わる大問題であったため、翌年秋に地方幹部や人民公社の幹部は一斉に党中央に対してノルマ達成を報告した。すると党中央は全国の人民公社に穀物の公糧供出量の倍増を命じた。実際には生産倍増などできていないのに、水増し報告をした以上命令に従わざるを得ないので、必然的に人民の食糧が欠乏することになった。
そのような状況下1959年に毛沢東は全農民を動員して鉄鋼生産に全力を挙げるよう命じた。だが専門家もおらず設備もなく、原材料も十分確保できない中で良質な鋼鉄が作れるはずもなく、生産された鉄の大半は粗悪品で膨大な資源を浪費する結果となった。また製鉄事業で大量の木材が伐採されたために中国の北部は禿山だらけとなってしまった。そのせいで今でも中国では毎年洪水が発生している。
そして1959年夏、ついに大飢饉が全国を襲った。秋の収穫も不作で飢饉をさらに深刻化させた。それに先立つ1959年7月の中国共産党政治局拡大会議では彭徳懐国防部長が大躍進運動の失敗を取り上げ、他の出席者も大勢が支持を表明した。しかし毛沢東は彭徳懐の主張を党に対する攻撃、右傾機会主義として激しく批判したため、彭徳懐を支持していた出席者も一転して彭徳懐を批判するようになった。すでに毛沢東に逆らえるものは誰もいなかった。この会議で毛沢東の政策を修正することができていれば、大躍進運動による悲劇は1年ほどで乗り越えることができただろうが、誰も毛沢東に逆らえず、悲劇はますます深刻化、長期化することとなった。一層無理なノルマが課されるようになり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増し成果を報告した。そして報告を受け取った毛沢東は更なる増産を命令するという悪循環に陥っていった。
こうして大飢饉は1960年も1961年も継続し、少なく見積もって3千万人という人類史上最大規模の餓死者を発生させた(実際は4千万、5千万、6千万という説もある)。飢餓線上にいたものは数億人に及んだはずである。しかも驚くべきことに、数千万規模の餓死者が発生していたにも拘らず、政府は3年連続で穀物を大量に輸出していた。1958年に266万トン、1959年に419万トン、1960年は265万トンである。1960年といえばすでに大飢饉の発生を把握していたにも関わらずである。ここまでくると大躍進運動は人民の大量虐殺といっても過言ではなかろう。
心底飢えた時に人間がとる行動は、平時の人間の想像を絶する。人々は自分の子供を他人の子供と交換して食べた。さすがに自分の子供を食べるには忍びなかったのだ。調理は脳みそと内臓を取り出し、あとは取れるだけの肉と脂肪を切り取るのである。そして脳みそでスープを作り、内臓や肉を炒め物や煮物にする。こうして1週間ほど凌ぐのである。
1962年に開かれた中国共産党拡大工作会議で、毛沢東は大躍進運動の失敗に対する自己批判を余儀なくされた。これ以降、劉少奇と鄧小平が中国の経済再建へ向けて舵をとるようになる。共和国建国から13年、中国人民は人類史上経験したことのない悲劇を味わってきた。列強による侵略や、抗日戦争をはるかに上回る悲惨さであった。しかしこの後さらに悲惨で長期間に及ぶ悲劇が待っていた。
■文化大革命
中国共産党は何かと言うと60年前の日本軍の蛮行とやらを数十倍に誇大宣伝し、日本に謝罪と反省を求めているが、中国共産党が行ってきた残虐行為の犠牲者数は抗日戦争の数十倍にのぼる。まずは自らが謝罪と補償をすべきであろう。だが犠牲者数があまりにも膨大過ぎて、謝罪と補償は現実的ではないかもしれない。殺人犯でも死んでしまえば罪が問われないように、中国共産党を滅亡させることが唯一の解決策と言えるかも知れない。
■天安門大虐殺事件
なぜ胡耀邦の死がこのような民主化を求める大きなうねりにつながったのか。それは胡耀邦が言論の自由や政治的民主化を主張していた「開明的指導者」として、中国人民からの支持を集めていたからだ。1986年12月に安徽省合肥で民主化を求める集会が開かれ、その運動が瞬く間に全国に広がると、胡耀邦は鄧小平から「対応が生温い」と厳しく批判され、1987年1月に辞任に追い込まれてしまった。
後任の趙紫陽総書記も鄧小平の期待とは裏腹に、開明的な人物であった。1989年5月19日午前4時45分、趙紫陽は天安門広場に現れ、ハンドマイクを持って学生たちに話しかけた。「我々はここに来るのが遅すぎた。すまなく思う」という有名な言葉を残し、「冷静に今後のことを考え、ハンストを早くやめてほしい」と主張した。これ以降趙紫陽が公の場に姿を現すことはなかった。翌20日戒厳令が布告され、21日には趙紫陽が全ての役職を解かれ、自宅軟禁下に置かれた。趙紫陽に対する自宅軟禁は2005年1月に死去するまで続いた。
6月4日午前4時半、ついに人民解放軍が武力弾圧を開始した。兵士が群集へ無差別射撃を開始し、若者たちが次々と倒れていった。戦車が若者たちを次々と踏み潰していった。事態は一方的な市街戦の様相を呈し、人民解放軍は市街地で民衆を次から次へと虐殺していった。この天安門大虐殺事件による死者数は定かではないが、数百人から四千人という説まである。中国共産党はこの事件を反動派による動乱事件としている。1996年に訪米した遅浩田国防相は「天安門広場では一人の死者も出ていない」と発言しているほか、中国共産党は「虐殺は存在しない」「死者は数人」などといった破廉恥な宣伝を繰り返している。
- 一党独裁政権は永久には続かない
- 成長率以外は最悪の数字だらけの中国経済
- ありとあらゆるところに不正と腐敗がはびこる社会
- 世界中に迷惑をかけ続ける中華人民共和国
- 道徳も遵法精神もない人民が巻き起こす絶望的社会状況
- 世界各地で共産党に対する反対運動
- 妄想に酔いしれている政府・マスコミ・人民
共産主義イデオロギーが完全に崩壊した今、中国共産党は「愛国主義」によって政権の延命を図っている。ここでいう「愛国主義」とは主に「反日」である。反日教育は共和国建国当初から存在したものであったが、その当時は単なる教育の一環でしかなく、それほど徹底したものではなかった。だが90年代に入ると、江沢民政権下で本格的な反日政策が実施された。テレビや新聞では日本を批判する報道が毎日のように繰り返され、教育現場では6歳の子供に、かつて日本軍がいかに残虐な方法で中国人を殺したかを生々しく教える。中国各地で抗日記念館が造られた。これにより、ほとんど全ての中国人に潜在的対日敵対意識が刷り込まれることになった。中国共産党は国家運営に失敗を繰り返してきたが、宇宙開発や反日教育など国民生活の役に立たない分野では大成功を収めてきた。
しかし、反日政策は単なる延命効果でしかない。経済発展はむしろ中国共産党政権を崩壊に向わせている。中国人の経済活動や価値観は確実に正常な国家の状態になりつつある。政治のみが時代錯誤的な状態を続けている。今や中国人も外国人も多くが中国共産党独裁政権はふさわしくないと考えている。ただその一方で多くの人々は、中国は今繁栄に向っており、中国には明るい未来が待っていると新興宗教の信者のように頑なに思い込んでいる。しかしそれは根本的な誤りである。
マオ
社会に動乱を起こすことや人民の殺戮に対して無頓着なところは、スターリンも毛沢東も似たような体質を持っていた。そして容赦なく自己利益のみを追求し、そのためには同志であれ利用し殺戮した。
毛沢東はソ連のコミンテルンからの指示に従順であったために中国共産党の幹部に抜擢された。他の党員はソ連の支配を嫌っていた。
国民党を率いる孫文は清朝政府を倒すにはソ連の協力が必要として資金や人材・兵器などの提供を求めた。そこでソ連は国民党を内部から操るため、中国共産党員に国民党へ入党するよう指示を出し、毛沢東もそれに従った。第一次国共合作である。ソ連の大物工作員だったミハイル・ボロディンも孫文の主席政治顧問として派遣された。孫文の死後、後継者となった汪精衛に贔屓された毛沢東は汪精衛の代理として活躍したが、実態はソ連の操り人形だった。
国民党のソ連人顧問は国民革命軍を使って中国でソ連式の暴力革命を起こそうとしていた。そのため中国全土で社会秩序が崩壊し暴力が噴出した。ごろつき連中が富農や知識人を襲って残虐行為に及ぶと、それを見た毛沢東は自身の中に眠っていたサディスティックな性向を目覚めさせた。そしてそれを見たソ連はそれこそソ連式の社会革命モデルにぴったりだとして称賛した。しかし中国共産党の創立者である陳独秀は暴力革命に反対していた。
ソ連式の暴力革命に国民革命軍兵士も反発した。折りしも北京政府の官憲がソ連公館に踏み込みソ連が政府転覆に加担していた証拠が多数押収されたことで、国民革命軍総司令だった蒋介石は共産党と袂を分かち、赤狩りを行って共産党員を逮捕あるいは殺害した。従来蒋介石は国民党左派と思われていたが、ソ連を訪問した3ヶ月間に根っからの反ソになった。特に「階級闘争による革命」という手段に反感を抱いた。汪精衛も蒋介石に従った。以来蒋介石は国民党の党首となった。
毛沢東は中国の皇帝になるという個人的な欲望を満たすために、共産党の紅軍とソ連から提供される軍資金を利用しただけのことである。イデオロギーなどどうでも良く、皇帝になれるのであれば国民党でも良かったのである。
張作霖爆殺はソ連情報機関の資料によるとスターリンの命令でナウム・エイティンゴンが行い、日本軍の仕業に見せかけたものであった。ナウムは後にトロツキー暗殺に関与した人物でもある。息子の張学良は父の後を継ぎ中国東北部を支配していたが、共産党と密かに通じてソ連の支援を得て蒋介石に取って代わろうと画策していた。
1936年、スターリンは中国を統一できる力を持っているのは蒋介石だと断じ、共産党に国民党と同盟して抗日戦に当たれと命じた。第二次国共合作である。これは日本軍の進路をソ連に向けさせないための重大な方針転換であった。しかし蒋介石に取って代わって中国を支配したがっていた張学良には伝えなかった。第二次国共合作は1938年まで続いたが、毛沢東がスターリンの指示を無視して方針転換をしたため、1939年以降は国民党に対し攻勢に転じた。
蒋介石の妻である宋美齢の姉、宋慶齢は共産党のスパイであった。
八路軍とは国共合作時代に延安を本拠地とする共産党軍46,000名に名付けられたもので、「国民革命軍第八路軍」が正式名である。
周恩来は毛沢東の共犯者である。
毛沢東は25年間風呂もシャワーも使わなかった。代わりに使用人が毎日熱いタオルで全身を拭き上げた。
毛沢東は愚民政策を採り人民を脳死状態に置いた。それは潤いを排除した社会、文明を消し去った社会、感受性を圧殺した社会、黙って命令に従うロボット人間の社会を作るためである。
文化大革命において毛沢東は「旧文化を殲滅せよ!」と号令した。
劉少奇夫妻が造反派に批闘大会で辱められ痛めつけられた時、造反派は6才の娘を含む劉少奇夫妻の子供達に見学させた。
