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皇紀2685年(2025)7月

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儒教

 仏教と同様、日本に入ってきてから日本化され、独特の日本儒教となった。

 儒教は先祖の魂は不滅であるとする信仰(先祖崇拝)と、善行も悪行もそのまま返ってくるという信仰(天神相関説)の、二つの宗教概念をベースとした宗教である。

 孔子は「怪力乱神」を否定したが、先祖の魂が不滅で永遠に子孫を見守っているというのは、怪力乱神を認めていることであり矛盾している。しかしこれは証明しようのない宗教的問題である。儒教は宗教なのである。

 位牌のルーツは儒教である。孔子が儒教として理論建てる以前、儒者と呼ばれた人達は葬儀屋であり、儒礼に基づいて執り行っていた。彼らは「死者の魂は不滅でご先祖様として我々を見守っていてくれる」と考えていたので、死者の象徴として位牌(木主)を立てた。しかし仏教では魂は不滅でも死ぬと輪廻転生して別のものに生まれ変わり、記憶も失くしてしまうと考えたため、本来位牌は用いない。ところが日本神道では「神の依代(よりしろ)」という考えがあり、これが位牌に相当するものとして日本の仏教に取り込まれたらしい。

 儒教では子孫を絶やしてはならない。先祖を祭る者がいなくなるからだ。ただし子孫は男系のDNAを受け継ぐ者でなければならないとされ、妻に男子ができなければ他の女性と関係を持って男子を作ることが善とされる。養子を取る場合には、日本ではどこから縁組みしても良いが、中国や朝鮮では男系の血が繋がっている所から縁組みしなければならない。だから必ず同姓ということになる。

 男子のDNAを受け継ぐ者でなければならないというのは、まるでY染色体が万系一世を可能にするということを知っていたかのようだ。しかし男子の養子を取る場合、どこから縁組みしても良いという日本のやり方では万系一世は無理だ。その点、中国や朝鮮のやり方の方が正しい。

 儒教の第一義「孝」をテーマにした物語集「二十四孝」を読んだ魯迅は、近代化を阻む悪しき思想だとして否定した。

 儒教の徳目「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の内「仁」は特別で、他の七つを修めることでようやく得られる最高の理想的人格であるとする。

 日本は明治以降近代化のために西洋思想を取り入れたが、道徳のバックボーンを形成するために、神道を仏教と切り離して国家神道とし、ローマ法王に対抗すべく天皇をトップに祭り上げた。また天皇への忠義を強いるため儒教を用い、国民は天皇の赤子であるとして忠・孝を一致させた。

■儒教の問題点

  1. 平等主義にならないこと。人間関係の濃さの違いが根強くあるために、なかなか物事を変えられない。
  2. 尚古主義であること。何でも昔の方が良かったとするので、強い保守主義となり物事を新しく変えることができない。
  3. 商売を悪とするため経済的視点がない。
  4. 科学的視点がない。

 経済という言葉は日本人が作ったもの。他に権利・哲学・科学・鉄鋼などがあるが、日本へやって来た留学生によって中国や朝鮮で使われるようになった。

 儒教では「信」という徳目があるように、嘘をつかないことは重要視されているはずなのに、なぜ中国人や朝鮮人はよく嘘をつくのだろう? 歴史捏造など最たるものだが‥‥?

 日本独自の「和」の思想は、儒教と仏教の毒に対するカウンターパンチである。

 日本は科挙を取り入れなかった。その理由は「和」の思想が競争を嫌ったからである。また、試験が儒教に限定されていたことにもある。儒教に限定されていたのは、最も徳のある(はずの)皇帝を補佐するのだから、一般民衆の中で最も徳のある者を選び出すというのがその理由であった。だから儒教の聖典「四書五経」の理解度をペーパーテストによって試した。

 徳川家康が儒教(それも朱子学)を奨励したのは明智光秀の再来を防ぐためであった。しかしそのことが幕末の倒幕・王政復古の理論的根拠を提供することになった。天皇こそが王者であり、徳川家は覇者に過ぎないということだ。

 中国人や朝鮮人は中華思想の徒である上に、儒教というまったく批判を受け付けない宗教に毒されているため、靖国神社に対する日本人の思いを理解できない。

 マックス・ウェーバー(ドイツの社会学者・経済学者)は、「良い品質をもたらす仕事は成果主義の報酬だけでは生み出せず、来世を否定する儒教では仕事に打ち込もうとする精神を生み出せない」と語った。

「良い仕事は成果主義だけでは生み出せない」。ウェーバーは実に慧眼だ。

原爆投下は予告されていた

 戦争における日本の政治家・官僚・高級軍人の死亡率は非常に低い。因みにイギリスは非常に高い。

 高級軍人が死傷すれば作戦遂行が困難になり、また人材補充も困難であるという考えは尤もだが、日本軍の場合は高級軍人が本当に優れた指揮官とは言えず、将兵を無駄死にさせることが多かったことも事実である。何事もバランスが大事だということだ。
 優秀な高級軍人を得るためには自ら立てた作戦を先頭に立って実践させ、目標を達成させることだ。失敗すれば死ぬことになるが、生き残った者は真に優秀な高級軍人となる。それは部下の将兵を無駄死にさせることをしないだろう。

 支那の広東で原爆投下予告を傍受した黒木雄司伍長という日本兵がいた。

 1994年度のドキュメンタリー映画「原爆死」(ケーシー・ウィリアムズ作)によると、長崎投下8月9日当日に米兵捕虜救出のため米軍空母が湾に入り兵士が上陸していた。

 原爆投下は米・英の共同計画であった。投下を知りながら回避しなかったのは日本の陸・海軍首脳たちである。

 日本という国は強者が弱者を盾にし、危機が迫ると弱者を置き去りにして逃げる、という歴史を繰り返してきた。

 日本軍は皇軍であり、最優先事項は天皇を守り抜き国体を守ることだ。だから満州や沖縄の悲劇が起きた。このことは日本人自身がよくわきまえておくべきことだ。

 関東軍参謀だった辻政信は、ノモンハン作戦失敗の責任を戦闘部隊の兵士に押し付けて自決に追い込んだ上、短期間で参謀に復任した後、太平洋戦争で更に日本を泥沼に引きずり込んだ。加えて戦後日本が独立を果たした後こっそり帰国し、国会議員になって米軍砂川基地反対闘争を鼓舞した。しかしこのような恥知らずな軍人は彼だけではなかった。

 戦後5年間「最大許容放射線被曝線量」はアメリカの屁理屈で改竄されていた。原爆は空中で爆発するので、爆煙と共に放射性物質は風で大気圏に拡散し地表に放射線は残留しないとされていた。ABCC(原爆障害調査委員会)は放射能の影響を少なく見積もるために、意図的にデータを操作した。そして日本政府もその屁理屈に追従した。

 責任は戦争の歴史を現在とは無縁と考えた戦後の偽善的精神風土にある。

 第二総軍首脳と中国軍管区司令部は、新型爆弾(原爆)投下の確証を掴んでいたにも拘わらず、広島市民を爆弾の性能を確かめるためのモルモットにして自分達は逃げたのである。旧日本軍が守ろうとしていたのは国民ではなく国体なのだ。民衆よりもまず自分達を守ろうとしたのだ。

 広島の原爆はウラン核分裂型で「リトルボーイ」と呼ばれた。長崎の原爆はより威力の大きいプルトニウム型で「ファットマン」と呼ばれた。

 原爆投下について当初米政府と米軍部首脳の見解は違っていた。米海軍提督ニミッツは「既に日本を封鎖しているので原爆投下は不要」、太平洋戦略航空軍団総司令官スパーツ将軍・第21爆撃団ルメイ司令官は「爆撃で日本の降伏は時間の問題なので原爆は不要」、暗号解読で日本の内部事情を察知していたバーンズ国務長官は「日本は和平を求めて動いているので原爆は不要」と主張していた。にもかかわらず原爆が投下されたのは、1945年6月1日に開催された陸軍長官スティムソン率いる暫定委員会で既に決定されていたからである。それは国策として20億ドルもかけた原爆開発に対し、成果を見せることで国民から支持を得なければならないという理由であった。しかしそれが想像以上の破壊をもたらしたため、アメリカは戦後一転して「日本の降伏を達成するため投下した」と主張した。

 旧皇族の竹田恒泰によればバーンズ国務長官はトルーマンと共に日本への原爆投下に積極的であった。

 日本はベラスコら在米スペイン人諜報組織からの情報で、マンハッタン計画を知っており、ニューメキシコ州で行われた爆発実験も原爆であることを知っていた。しかしスペインの日本公使館から打電されたその情報は、いつのまにやら記録から消されている。意図的な原爆情報隠しがあったのだ。

 日本でも1940年4月より陸軍が原爆開発を行っており、「ニ号研究」と呼ばれた。理化学研究所の仁科博士の姓から取ったものである。1943年に東条英機首相も「アメリカやドイツで原爆研究が進んでいるので日本も遅れるな」と指示している。だから軍部はアメリカの原爆研究についてよく承知しており、原爆完成を夢にも思わなかったというのは言い逃れである。

 原爆が投下される前の長崎造船所で使役されていた米軍捕虜の証言がある。それによると、日本の民間人も捕虜と変わらない待遇で働いていた。幼い少年少女もきつい仕事をしていた。中国で捕虜となっていた日本の古参兵もおり、彼らは捕虜体験の傷を負っていた。鼻や耳を切り取られていたり、踵の腱を切られている者もいた。その男はピョンピョン飛び跳ねながら歩いていたので思わず笑ってしまったが、その原因を知ってからは笑えなかった。つまり長崎市民も捕虜同然の扱いで、原爆情報は伝えられず犠牲となってしまったのだ。しかし軍関係者だけは原爆が投下されることを知っており、事前に避難した。

 これを聞かされると日本人の一人として何も言えなくなる。旧日本軍というのはここまで一般国民の命を軽んじていたのか。国体を守るといっても国民なくして守れないだろう。むしろ天皇は国民あっての国体だと思っていたに違いない。まさに旧日本軍というのは異形の化物だ。

 B29のスウィーニー大佐は、小倉で原爆投下に3度トライしたが失敗したので、目的地を変更し長崎に向かったが、その時誤って肘で通信装置のスイッチを入れてしまい、交信を日本軍に知られてしまった。そのため日本軍は明らかに次は長崎に投下されることを知っていた。

 因みに東日本大震災の時、福島第一原発の作業員達は劣悪な状況下で作業を強いられ、線量限度を超える被曝をした。しかし東電の清水社長は高血圧と称して入院し、その間自宅の住宅ローンを完済していた。それはきっと後で私財提供を迫られた時のことを考慮してのことだろう。こんな奴は日本人の面汚しだ!

 長崎へ投下後、その日の内に米航空母艦が数隻の軍艦と共に長崎湾に入った。捕虜救出のためであるが、機雷が敷設された湾を水先案内したのは海軍の船であった。実はこの頃海軍は既に終戦に向けて動き出していたのである。

 チャーチルはポツダム会談の中で日本に3回警告した上で原爆を投下するべきだと言い、トルーマンはそれに同意していた。しかしグローヴス将軍は原爆の機密を優先して無警告で投下すべきと主張していた。そこで日本の井上勇グループとの短波放送を介した秘密交渉で、事前に警告したことにしたのではないか。井上勇グループの背後には米内光政海軍大臣がいた。

 黒木雄司伍長はその著書の中で、ニューデリー放送が日本語で日本時間に合わせて、1945年6月1日スチムソン委員会が全会一致で日本への原爆投下を大統領へ勧告し、7月15日爆発実験成功、8月3日広島への投下を予告、長崎への投下は8月7日より毎日3回予告放送をした、と記している。このことを多くの歴史家は歯牙にもかけないが、マンハッタン計画を主導したロス・アラモス研究所のオッペンハイマー、フェルミ、ボーアによって原爆情報がソ連に流されており、ソ連のスパイであるスドプラトフの手に原爆設計図が渡ったのは1945年初頭である。そうであるならば十分有り得ることだ。ましてや対日宣伝放送は諜報・謀略部門が行うものだ。原爆の無警告投下に反対していたロス・アラモス研究所の学者達から、情報を入手したニューデリー放送が密かに放送したのかもしれない。無警告投下については暫定委員会のR・A・バートも反対して辞任したほどだから、どこから漏れてもおかしくはない。あるいは事前の3回警告をアメリカが守りそうもないので、イギリスが諜報組織を通じて情報をニューデリー放送に流したのかもしれない。しかし黒木伍長からの報告は大本営まで届かず誰かに握り潰された。
 広島投下に際しても8月3日に予告放送があった。8月6日原爆を広島へ投下する、という内容を朝から夜まで3回繰り返された。
 黒木伍長はニューデリー放送について、インドからの放送にしてはあまりにも良く聞こえるため、実は米軍司令部か情報センターから放送されたのではないかと書いている。

 長崎に投下したB29の77号機「ボックス・カー(ロスト・パラダイス)」が、テニアン出発時に燃料ポンプ故障が判明していたのに敢えて離陸していること、台風接近の中で敢えて決行されていることを考え合わせると、広島に投下したエノラ・ゲイ号の作戦実行における慎重さに比してすこぶる乱暴で違和感を感じざるを得ない。これはアメリカと米内海軍大臣との間で密約があり、どうしてもこの実行日を守る必要があったのではないかと思える。

 当時非人道兵器として毒ガス兵器が禁止されていたが、原爆はそれ以上の非人道兵器なので、それを最初に使用してしまったアメリカは、未来永劫その罪を問われなければならない。

 日本の敗戦の原因は、希望的観測のみを語り現実から目を背けた陸海軍高級将校と官僚・政府にある。さらにそれに追従する者だけが利益を得るという国体の仕組みにあった。

逆説の日本史17

 縄文人はおそらく東南アジアから渡ってきた人々だ。彫りが深くて多毛だから。後から朝鮮経由で渡来してきた農耕民族(弥生人)が先住民族の縄文人を支配して混血が進んだ。しかし列島の北端と南端は弥生人が移住しなかった。だから「部落差別」は農耕民族の長である天皇家の本拠である近畿地方を中心に存在する。関東や東北にゆくに従って差別は希薄になる。その根源には死をケガレと捉える発想があり、これが死や血に触れる職業人を蔑視することになっていった。今でも沖縄やアイヌでは肉食文化が濃厚だ。

 松前藩の武士はやがて商業を賤しむようになり、アイヌとの取引を内地からやって来た商人に一任したため、「アイヌ勘定(アイヌ側はシャモ勘定と呼ぶ)」と呼ばれる悪どい詐欺取引が横行するようになる。純朴で金勘定に疎いアイヌを騙して暴利を貪ったのである。しかしアイヌ側も実はしたたかに対応していたらしい。

 欧米各国が植民地で先住民相手に行った非道な行為を、日本人もアイヌ人に対して行っていたということだ。

 朱子学には歴史を理想通りに改竄する悪癖がある。2000年以上前にも韓非子が「儒教は昔の方が良い時代であったという証明不可能な予断を持っている」と批判していた。朱子学は「亡国ヒステリー教」である。

 松前藩は当初アイヌを同化しようとした。同化政策と差別政策は違う。同化政策とは異民族を同族化してだんだん差別がなくなるように仕向けることであるが、差別政策は南アフリカのアパルトヘイトのように違いを明確に残し、いつまでも差別し続けることである。しかし同化政策には異民族の持っていた独自文化が破壊されてしまうという弊害がある。つまり善意で行った事は絶対に正しいという「善意絶対主義」は実は誤りである。アイヌ側に言わせれば「地獄への道は善意の石畳で舗装されていた」ということになる。

 古事記は神道の経典であり、日本書紀は歴史書である。代表的な国学者である本居宣長が古事記や源氏物語の研究を通して感得したことは、仏教や中国思想に汚染される以前の日本人の無垢な心情である。それを彼は「もののあはれ」と呼んだ。これは調和のとれた優美繊細な情趣の世界を理念化したものであり、儒教のように勧善懲悪の単純な見方をせず、複雑な人間の心情をそのまま受け止めるべきだと主張した。それは儒教圏の中国や朝鮮にはまるでない考え方である。しかし宣長の影響は文学方面より日本の宗教や政治思想に対してこそ大きかったと言える。それは日本人の宗教の完成者であり、明治維新の大の功労者だからである。維新の時代に売国奴が一人も出なかったことや、大政奉還が可能だったことも、彼によって思想が確立されていたからである。彼は日本の統治権は天照大神から委任されているのであって、民も国も天皇から預かっているものだと断言している。

 現在でも日本のキリスト教徒は1%強しかいないが、広まらなかった理由は幕府による禁教令が出たこともあるが、それ以上に日本人の中に一神教の原理を受容できない素養があったからである。それは和の精神であり、本居宣長が生み出した「天皇絶対教」があったからである。

 この世に起こるすべてのことは神の計らいである。神はもともと和魂(ニギミタマ)と荒魂(アラミタマ)を持つと考えられていた。そこで宣長は絶対神である天照大神にも当然悪をなす部分があるはずと考え、その荒魂を禍津日神(マガツヒノカミ)だとしたのである。この神は黄泉の国の穢れから生まれ、災厄をもたらす神として既に知られていたが、実は他に特別な性格を持つと言うのである。宣長の古事記伝によると禍津日神は別名を瀬織津姫(セオリツヒメ)と言い、この世の罪を海の彼方に流し捨て、祓い清める霊力をもつ神であると言う。

 宣長の「天皇教神学」では、現世においては辛いことや哀しいことがあっても、天皇と共にあることで幸せなのだとするが、来世の救いが何もないことが欠陥と言える。その欠陥を埋め「天皇教神学」を完成させた人物こそ平田篤胤であった。

 仏教では霊の存在を認めていない。死ねば別の生き物に転生すると教えている。しかし日本人は霊魂は不滅で意思を持ち子孫を見守っていると考える。これは祖霊信仰であり、世界の主要な国々ではほぼ絶滅したと言っても良いが、日本だけでしぶとく生き残った。この考え方を強固にした人物こそ宣長の後継者と自称した国学者で神道家の平田篤胤である。

 篤胤は死後に黄泉の国へ行くのは肉体だけであって魂は幽冥界に行くとする。幽冥界とは人間のいる地上界と神のいる天上界の中間にある世界で、大国主命(オオクニヌシノミコト)が主宰する。人は死ぬと霊となって幽冥界に行き、そこで審判を受けて現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課すとしている。

 篤胤の天皇教は人々に熱狂的に支持され、この信仰の力が国民統合を生み、幕末の欧米列強の侵略を跳ね返した。

■朱子学の政治への悪影響

  1. 祖法を絶対視するため新しい事態にフレキシブルに対応して国益を図ることが出来ない。
  2. 歴史を自分に都合の良いあるべき姿に捏造して実際にあったことを認めず、また目の前の現実を素直に見据えないで空理空論に走る。
  3. 外国人を夷(えびす/野蛮人)と決め付け、その文化を劣悪なものとしてしまう。

 老中水野忠邦の行った天保の改革は失敗であった。しかし薩摩・長州・肥前の三藩だけは独力で行財政改革に成功していた。特に薩摩は77万石の所領に対して500万両の借金があったが、見事に立て直した。借金の原因は主に二つあった。一つ目は幕府の命令による普請工事である。他藩の木曾・長良・揖斐川の治水工事を命じられ(宝暦の治水)、幕府の酷い嫌がらせなどもあって難渋したが(病死33名、自殺者52名)約1年かけて完了させた。しかし藩の借金は膨らみ総奉行(責任者)であった平田靱負(ゆきえ)は自刃した。二つ目は第8代藩主重豪(しげひで)の浪費であった。実は薩摩藩士は基本的に郷士であり、半農半士として領内に点在していた。幕府との一戦を想定して所領を防衛するためである。そのため藩士は質実剛健、悪く言えば粗野にして無学の徒であったが、重豪はそれが気に入らず、蘭学を学び科学実験なども多額の費用をかけて行った。それは曽孫の名君斉彬に受け継がれる。また長女が贅沢好きの徳川将軍家斉(いえなり)の御台所となったため、婿への対抗意識から重豪の浪費癖に拍車がかかった。これらのことで藩財政を破綻させてしまったのである。
 重豪は藩財政建て直しのために経営コンサルタントとして平田篤胤の弟子だった佐藤信淵(のぶひろ)を雇った。彼は砂糖の専売制移行や琉球貿易の活発化を行い、これが功を奏して幕末の頃にはむしろ富裕な藩となっていた。

 ペリーの来航が幕府はじめ日本中を恐怖に陥れたのは、蒸気船に理由がある。それまでの帆船では青銅製の小さな大砲しか積めず、艦砲射撃を行ってもほぼ陸地には届かなかったが、蒸気船に積んだ強力で大きい鉄製の大砲からは陸地深く届いたからである。このことで日本は海に囲まれた世界一安全な国から、周囲のどこからでも艦砲射撃できてしまう世界一危険な国になってしまったのだ。

 蒸気船と帆船の決定的な違いは、無風でも予定通りに走れることだけではなく、射程距離の長い強力で大きい鉄製の大砲を積むことができたことだ。

 初代総領事ハリスは回想録で、「日本人はよく肥え、身なりも良く、幸福そうである。貧富の差もないようでこれが人民の本当の幸福というものだろう。日本を開国して外国の影響を受けさせることが本当に良いのかどうか疑わしい。」また「日本人は正直で勤勉、身分や貧富に関わり無く質素で華美に走らない。日本人は喜望峰以東のいかなる民族よりも優秀であることを繰り返し言う」と述べている。

 開国したなら日本人は外国人に日本の価値観を積極的に教えるべきだ。外国人が帰化したいと言うなら日本の伝統文化を積極的に守ることを条件にすれば良いのだ。

 外国の都市に比べて日本の都市は公園面積が少ないと言われているが、幕末の日本に来た外国人は日本の都市ほど森が多く市民の憩いの場所になっている国はないと言っている。それは鎮守の森があるからである。