大紀元時報
毛沢東亡き後、絶対的権威を失った中共政権は分裂するだろう。ルール無視の権力闘争勃発により権力平衡維持の連鎖が切れ、内部抗争に入った。誰もが以前の「暗黙の了解」を気にとめることなく、誰もが他人を構わなくなる。共産党の分裂はもう遠くはない。
中国のツイッター「微博」は瞬く間に共産党の醜聞を国中に知らせる。政府は必死に抑えようとするが規制は効果なく、共産党政権への信用をなくしている。
中国 地球人類の難題
中国は暴力団だと思えばわかりやすい。舎弟である若者に「民族の復讐」としての反日教育を行い、今後もネタを探し出してはユスリ・タカリの理由とする。
中国の民主主義の原則を無視した言いがかりには徹底的に反論すべきである。
中国は世界平和に対する軍事的脅威であり、環境破壊の元凶であり、人権弾圧の根源である。
2007年6月米下院外交委員会における従軍慰安婦問題で対日謝罪要求決議が可決されたが、性奴隷などとは著しい事実誤認である。あったのは管理売春としての慰安所であり、朝鮮戦争時に作られた韓国の東豆川米軍慰安所、戦後米軍の強い要請によって日本に作られた慰安所も同様のものである。つまりアメリカ人も同じことをやっているのである。ことさら日本軍の行為だけを捉えて悪とするのは実に不公正である。
戦時中の人権侵害を問題にするなら、ベトナム戦争中の韓国兵による強姦をもっと問題にしなければならない。ライタイハンと呼ばれる混血児が約3万人も生まれている。管理売春では有り得ないことだ。
また、現在の韓国は親共のノ・ムヒョン政権であり、米国内で盛んにロビー活動を行っているのは彼ら共産主義者達である。そして米国議会は裁定をする場所ではない。しかも検察側の証人を呼んだだけで決議した。いかに法的拘束力はないとはいえ、弁護人やその証人、陪審員も置かず独立国家に対して「謝罪せよ」などと判断を下す権利はない。
反日ロビー活動を行っているのは表向きは韓国の「女性のための韓国協議会」だが、背後で支援しているのは中国の「世界抗日戦争史実維護連合会」だ。渡米して米国籍を取った中国人が、日本の戦争責任や慰安婦問題などを徹底的に追及する活動をしている。マイク・ホンダ議員への献金の3割は中国からのもの。
日本も慰安婦決議に対抗するため、原爆による無差別虐殺を取り上げ、米国に謝罪要求決議を求める活動をしようという意見もあるが、それは日米間に亀裂を生じさせ、むしろ中国を利することになるので、まずは民主主義を共に守る立場から米国と手を携えて中国に対抗すべきである。
1993年の河野談話は取り消す必要がある。反論しないことが証拠だと取られる。
安倍総理の提案するカウンター・インテリジェンス(防諜)機関はぜひとも必要だ。中国や北朝鮮・韓国の言いがかりを、たちどころに粉砕する証拠資料を常に準備しておくことだ。
中国が国策映画として嘘だらけの南京事件映画を作るのなら、日本はユン・チアン著「マオ 誰も知らなかった毛沢東」を映画化すべきである。
中国人13億人のうち7億人は北京語が理解できず、3億人は小学校すら出ていない。2億8千万家庭のうち半数以上は新聞・雑誌を読まず、1億人は名前すら書けない。
何の処理もせず汚水を垂れ流し続けた結果、長江は世界一長い下水道と化した。そのせいで2億人が汚染された水を飲み、1分に2人の割合で障害児が生まれている。
中国では中ソ対立の時代には徹底した反ソ教育をし、江沢民時代以降には反日教育がなされるようになった。反日に転じたきっかけは、84年に本田勝一が朝日ジャーナルに「南京への道」を連載したこと、朝日新聞が日本軍の大陸での悪行を書きたてたことにある。反日日本人が張本人だ。
ニューヨークには滞米中国人向けに「大紀元時報」という週刊の反中共新聞があり、ネット版もある。その影響で300万人が中国共産党を見限った。
中国では1年間に数万件も暴動が起きている。中国経済は新奴隷制度で成り立っており、人民が奴隷状態にあるのは土地が非常に安いからだ。
国際金融を牛耳っている米国は、貿易赤字が膨らむと相手国に通貨を切り上げさせて外貨流入によるインフレを起こさせ、株や土地を値上がりさせる。そしてその国が緊縮財政に転じた途端売り抜けて利益を収奪する。日本はこのバブル崩壊で大損した。中国も元を切り上げろと迫られているので、同じ手を使われるかもしれない。
中国の崩壊はモラルの低下が引き起こすのかもしれない。沿海部と内陸部との所得格差や、都市部から吸い上げた税金を地方に回すことができないことなどが、暴動を引き起こすきっかけになるだろう。暴動による政権交代は中国の伝統だ。
台湾を中国化するのではなく、中国を台湾化するべきだ。
靖国参拝問題については靖国神社を宗教法人にしたことが間違いだった。明治時代の東京招魂社という国の機関のままにしておけば、政教分離を盾に憲法違反と批判される心配もなかった。
外務省の官僚は保身と出世しか頭になく国家戦略がない。
日本の教育改革で必要なことは「教養」と「愛国心」を育てることである。
中国のエリート層は人民をごまかすことばかり考えている。だから人民が暴れ出すことを非常に恐れる。エリート層が農民を苦しめ、革命で取って代わった農民がエリートとなって農民を苦しめる。中国王朝交替の歴史はその繰り返しだ。国民に愛国心がないとそうなってしまう。
中国は19世紀の帝国主義国家のようなものである。民主主義がなく、農民を搾取し、領土拡張に執心している。中国人には地球人類の一員であるという自覚がない。中華思想は中国人が世界を支配するべきだとして、外国人と共存共栄しようとはしない。
中国の有名な兵法書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」にある外交の秘訣に、「相手国から優秀な者が来た時は交渉をまとめてはならず、愚鈍な者が来た時にまとめろ。そうすれば「優秀な者は失脚し愚鈍な者が重用されるので、自国に好都合となる」とある。
キリスト教 封印の世界史
ローマ教皇は今日でも、その権威と至上権は「肉体を持つキリスト復活の最初の目撃者だった」第一の使徒ペテロに由来すると説くが、マルコ伝・ヨハネ伝にあるように最初の目撃者はマグダラのマリアであると説く派も多い。それらの中には、復活したのは肉体ではなく霊だとして、教会を通じなくても誰もが直接神に近づき、絆を深めることができると説く派もある。
グノーシス(知識)派は次のように説く。教会ではなく自分を見つめ自分を知ることが神を知る道である。悲しみ・喜び・愛・憎しみの原因を追求すれば、自分の中に神を見出す。無知は恐怖・混乱・不安・疑惑・不和を生み出す。探究心が無知を追い払い救ってくれる。
紀元180年、司教エイレナイオスは数多い福音書を編集・改竄して内容を統一し、初めて今日の新約聖書に近いものを作った。しかし改竄したことが後に大きな弊害をもたらした。
実はイエスを殺したのはユダヤ人ではなくローマ人であった。キリスト教会はイエスの死の責任をローマ人ではなくユダヤ人のせいにし、イエスのローマ帝国に対する反政府運動をもみ消した。ユダヤ人は祖国を奪ったローマを憎悪しており、ユダヤ人であるイエスはローマに税を納めてはならないと命令していたのである。磔刑はローマが扇動家を罰する時の方法だったし、十字架はローマの占領に抵抗したユダヤ人の証であった。キリスト教会にすれば、イエスの死の責任をユダヤ人のせいにしてしまえば、キリスト教と政治的反乱の関連をうやむやにできて都合が良かったのだ。
教会は自分達の大切な教義であっても、民衆受けしないものは平気で否定した。
唯一至高神への信仰はすべてに優劣をつけるヒエラルキーを生んだ。
ローマ帝国は異民族の侵入で衰退し、6世紀のペスト流行で滅んだ。ペストはこの時ヨーロッパ人口の1/3(約1億人)を奪った。因みに14世紀のペスト流行では約2700万人死亡。その後も17~8世紀頃まで何度か流行している。
ペストの流行は教会の権威を高めた。教会は学術研究を禁止したため自然科学・技術は廃れてしまった。紀元前6世紀にはピタゴラスが地動説を唱えていたし、前3世紀にはアリスタルコスが太陽中心説を唱え、エラトステネスが地球の大きさを測定していた。しかしそれらはすっかり忘れ去られ、16世紀にコペルニクスが再び地動説を唱え、17世紀にガリレオが再び太陽中心説を唱えた。因みにガリレオの有罪が取り消されたのは1965年のことである。
人類の歴史は高々5000年というのは嘘で、20世紀以降の考古学の研究により実際は紀元前7000年~4000年には驚くほど高度な文明が栄えていたことがわかった。民主制度も既にあって、ヒエラルキーも戦争も奴隷制度もなかった。キリスト教が人類社会を向上させてきたというのは明らかな嘘である。
十字軍の遠征は約200年間続いた。
テンプル騎士団は当初十字軍の護衛として結成されたが、やがて政治力を持つようになり、信頼できる新手の金融組織となった。そこで彼らに脅威を感じた教会と王は、偽りの汚名を着せて弾圧した。
異端審問(宗教裁判)は教会法(カノン)を基に、市民を脅して従わせるため数世紀に渡って行われた。それは宣教師の伝道と共に広まったので、世界中で無数の命を奪ったのみならず、奴隷制度も広まった。そして「疑わしきは罰せず」のはずが、いつのまにか「疑わしきは罰せよ」に変わり、必ず有罪になった。
コロンブスは異教徒を聖なる信仰に改宗させると称し、従わなかった先住民を殺し、あるいは奴隷にした。また同じ理屈で女を強姦した。コロンブス自身の言葉によれば、女を激しく鞭打った後で快楽を味わったという。そして異端審問も開始され、更に大勢の先住民が火あぶりの刑で殺された。
キリスト教会はヨーロッパ諸国の世界侵略に大義名分を与えた。殺人・暴行・略奪を神の名において許したのである。
キリスト教会(カトリック)に対抗してルターが宗教改革に火を点けた。そして教会側も独自に反宗教改革を行い、新しくカノンを定めた。しかし両者は対立した。プロテスタントは聖書中心主義を唱え、その頃発明された印刷機が聖書の普及を支えた。彼らは旧約聖書の厳しい教えを重んじるようになり、信仰は困ったときの神頼みではなく、もっと神の絶対的な意志にすがり服従するという姿勢を持たなければならないとした。そして教会は必要がなく、聖書の言葉を通して神と強い絆を結ぶべきであるとした。キリスト教会は聖人崇拝などの行き過ぎを多少反省したものの、聖書の権威は教会が決定するものであるとした。
プロテスタントも人間に優劣があるとするところは教会と同じだった。ルターはユダヤ人に対しては奴隷にするか追放しろと言った。
やがてプロテスタントは様々な宗派に分裂し、互いを罵り合うようになる。
プロテスタントは教会の組織力に対抗するため、国家が個人の道徳を取り締まるという方法を考え出した。目指したのは敬虔な国家作りである。そしてヒエラルキーの縮図として家父長制度を重要視した。
ヨーロッパ中世においては互いに助け合うことは当たり前とされていたが、宗教改革の時代になるとそんな精神は吹き飛んでしまった。教会もプロテスタントも地域共同体は邪魔だと考えていた。その方が個人を操りやすいからである。そのため以前はみんなの前で行っていた告解(懺悔)儀式も、小さな懺悔室の中で司祭だけを相手に行うようになった。
教会もプロテスタントも協調性より神の命令に従うことの方が大切だと考えていた。中世の道徳の中心だった「七つの大罪」は「十戒」に取って代わった。「自惚れ・妬み・怒り・貪欲・大食・怠惰・色欲」より「父母を敬え」が最も大切になった。協調性よりも権威に逆らうことが最大の罪とされるようになった。
教会もプロテスタントも禁欲生活を説き、肉体は邪悪なものだとした。そのためあるイエズス会士は入浴を絶てといった(ヨーロッパに近世まで入浴の習慣がなかったのはこの教えのせいかもしれない)。キリスト教の歴史はセックスに対する非難で満ち溢れている。禁欲生活を称える有名な言葉として「地獄に落とされるよりも鞭打たれる方がまし」というのがある。
宗教改革の時代には、真のキリスト教徒は苦痛を背負わねばならず、それが真のキリスト教徒の証であるとされた。神は人間に勤労と苦しみを求めているので、人間は額に汗して糧を得なければならないとされた。
神が存在するなら悪魔も確かに存在するし、悪魔が存在するなら神が存在する。これほど確かな証拠はない。宗教改革者は人々に悪魔を信じさせて無力感を植え付け、意のままに操ろうとした。すべて悪魔のせいにしてしまうことで人間は責任を負わなくて済むが、責任を負う力まで失ってしまう。人間は自分に責任があると思えばこそ力を発揮するものだからだ。
宗教改革とカトリックの反宗教改革によって、ヨーロッパ人は魔術信仰から解放され、信仰は試練・苦行・懲罰を受け入れることによりいっそう高められるとして、正統派教会の教えを心から信じるようになった。
ヨーロッパから魔術信仰を葬り去ったのは15~18世紀に行われた魔女狩りだった。教会は常に女を侮辱してきた。イヴは禁断の木の封印を破って神の掟に最初に背いた者であり、男をたぶらかし破滅させる者であり、信仰の邪魔をする者であるから、すべての罪の責任は女にあると考えていた。そのため宗教改革後はマリア崇拝を一切禁止するようになった。
教会は古代多神教の伝統を引き継ぐ魔術師をサタンとして破門し、迫害し始めた。悪魔は一神教に特有のもので、そもそも多神教に悪魔は存在しなかったのだが、魔女を信じない者は異端者とされた。新手の異端審問としての魔女狩りで教会は莫大な利益をあげた。
何でも魔女のせいにされた。そして魔女狩りはカトリック教国(イタリア・スペイン等)よりもプロテスタント教国(ドイツ・スイス・フランス・ポーランド・スコットランド等)で盛んに行われた。
地上に神の力が存在するはずがないから魔術は悪魔の所業であり、教会への反逆であると考えられた。プロテスタントは十字を切る、聖水を撒く、聖人や守護天使に救いを求めるといった護身の術が既に廃止されていたので、魔術から身を守るには魔女を殺すしかなかった。
教会は、人々を治療して感謝されている魔女が殺されるのは、そもそも人間は自分の運命を決める権限を持たないし、健康は神から授かるものであって、人間が努力して得るものではないからだと説明した。
キリスト教は人間を自然から遠ざけた。神は遥か高い天上にいて地上は悪魔の領土でしかないので、自然を敬うことをしなくなった。古代において自然を敬うことは神を敬うことであったが、正統派教会は、神は人間と自然を敵対するようにしたのだと言う。アダムが善悪を知る禁断の木の実を食べてしまったために地が呪われ、人間は苦しんで地から食物を取って生きてゆかなければならなくなったのだと言うのだ。因みにギリシア神話の豊饒・多産の牧神パン(Pan)は教会によって悪魔像のモデルとされた。パニック(Panic)の語源となった。
自然界に神はいないという考えから動物の扱いにも変化が生じた。その生死は人間に委ねられ、悪魔の手先として宗教裁判にかけられることも多かった。それらは拷問され処刑(主に絞首刑)された。しかしネコ・オオカミ・ヘビ・キツネ・ヒヨコ・ニワトリを殺しまくった結果、ネズミが大量発生しペストの流行に繋がった。
自然崇拝を止めさせるのは至難の業であると悟った教会は、逆に取り込むようになった。キリスト教の肖像画や写本の装飾に豊饒神が登場するようになり、あの牧神パンも利用された。また異教の季節ごとに定められた祝日にキリスト教の祝日を設定した。キリスト教に馴染みやすくするためだった。しかし宗教改革時代になると自然崇拝的な要素は徹底的に取り除かれるようになり、いつしか人々も祝日の本来の意味を忘れていった。
キリスト教にとって自然は征服すべきものであって、崇めたり祝ったりするものではなかった。
従来時間は循環するものと考えられていたが、宗教改革以後、教会は時間を直線的に経過するものだと考えた。輪廻説も時間の循環説もイエスの唯一性と究極性を否定するものであり、教会にとって都合の悪いものであった。もし時間がぐるぐると回り何度でも生まれ変われるのであれば、誰もがイエスのように復活できることになり、使徒継承(イエスの復活に立ち会った使徒から教会の権威が敬称されてきた)の主張や、ヒエラルキーが成り立たなくなってしまうのだ。さらに人生が一度きりでなければ、地獄に落ちることを恐れる必要もなくなり、人々を操りにくくなるからだ。1657年の振り子時計の発明が教会の教えを後押しすることとなった。
教会は人間の自然な面までも否定した。「セックス・出産・肉体」を必死で遠ざけ、死だけに注目した。死は人々に恐怖を植え付けて操る道具であった。死は自然的なものではなく神が下した罰であった。だから人間は最後の審判の日を恐れ、地獄に怯え、信仰を尽くすことで、死を克服すべきものであるとした。
宗教改革以前、教会は煉獄というものを考え出し、金集めの手段としていた。死んでもいきなり天国か地獄へ行くのではなく、その前に煉獄という場所に行き、そこで悔い改めて罰を受ければ天国に行けるというものである。献金すれば教会の力で天国に行けると説いたのだ。しかし宗教改革以後は死を自然的なものとして扱うことが一切禁止された。死んだら煉獄に行くという考えも否定された。死んだらすぐに裁きを受け天国か地獄に行くとされ、葬儀も地域の重大な行事としてではなく、家族だけで行うものに変わっていった。
死への関心はキリスト教徒の世界観に影響を与えた。地上に霊的なものなどないと信じた信者達は、世界の終末を心から望むようになった。世界が滅びた途端に神が再び地上に現れる、と期待した。終末思想はその後も周期的に登場した。
神が地上に存在しないことから、思想家達も教会を頂点としたヒエラルキー・統治・闘争の必要性を唱えたが、21世紀が近付くにつれてそれらの考え方は疑問視されるようになっていった。
17世紀の思想家達はまだ天地の創造主は神だと信じていたが、神が地上に存在せず不思議な力を発揮することがないのであれば、悪魔も存在せず魔術もないはずだと考えるようになり、宇宙は神の干渉を受けることなく、合理的な法則に従って機械的に動いているのだと考えるようになった。
教会と近代科学者は物質界に神聖なものなど存在しないという点では一致していた。また近代哲学者も現実はたわいもない偶然の出来事から成り立っているのであって、大きな意識によって意図的に生み出されたものではないと考えた。
統治・闘争の必要性もダーウィンの進化論によって証明された。自然界は壮絶な生存競争の場であり、競争がなければ自然界の秩序は乱れてしまうと考えた。教会も統治と闘争がなければ神が定めたヒエラルキーを守れないと考えていた。ダーウィンは、人間は生存競争を勝ち抜き人口を増やしたが、さらなる進化を望むなら激しい戦いを続ける覚悟がいる。さもないと怠惰に溺れ能力のある者がない者に生存競争で負けてしまうだろうと言った。
ダーウィンは教会に反抗する気はなかったが、進化論は無心論者に利用された。無心論は魔女狩りの残虐性への反発から流行したもので、信仰心などなくても良心も道徳も保つことが出来ると主張した。これは教会にとって脅威となった。
近代思想家により証明されてきた機械論的・決定論的な宇宙の原理や法則は、近年の量子力学上の発見によって矛盾していることがわかってきた。原子以下の粒子レベルでは証明できないのである。物理学者スティーヴン・ホーキングは、一つの粒子の位置と速度の両方を同時に正確に知ることは出来ないという「不確定性原理」によって、宇宙の現在の状態でさえ精密に測定できないのだから、未来の出来事を正確に予測できるわけがないと主張している。
量子力学によって、物質が完全に無生命で無反応の存在ではなく、物質界が「心的」であり「物的」でもあることが証明された。こうした発見によって、精神と物質の分離説は否定された。
キリスト教的なヒエラルキーに当てはめる考え方も見直されている。要素を分析するだけではなく、要素の全体的な繋がりも合わせて考えることがより真理に近付けると考えられるようになった。
闘争が不可欠なものとしたダーウィンの進化論も見直されている。ガイア説によれば、生物にはより良い環境を作るために互いに助け合って生きる習性があるという。つまり統治・闘争・競争だけでは秩序や発展は望めないとしている。
ヨーロッパの医者も人間の身体は機械だとみなし、精神や意識から分離されていると考えていた。だから身体の自然治癒力を引き出すなどということは考えもしなかった。
商工業においても宗教的なヒエラルキーを真似てピラミッド型の組織を作り、恐れと競争原理を採用して統治し、また、まとまりを良くするため同人種・同性・同宗教者を集めた。しかしそれらが必ずしも効果的とは言えなくなって来た。
政治においても個人の意思を尊重する多元的社会では唯一至高神、ヒエラルキー、原罪の継承といった教会の教えは合わなくなってきた。例えば、アメリカの民主主義政治は神が定めた国家にふさわしくないとしてピューリタン達を困惑させている。彼らは人民が統治者になるというならいったい誰を統治するというのかと憤る。しかし1796年ジョージ・ワシントンは「アメリカ合衆国政府はいかなる意味においてもキリスト教に基づいてはいない」と書き記している。教会はアメリカが宗教の自由を認めていることに反発を繰り返した。さらにプロテスタント各派も反発していたが、ワシントンやジェファーソン、マディソンらは必死に教会と国家を分離しようとした。
因みに教会は13世紀にマグナカルタの制定に反対し、異端審問時代に全体主義国家の先例を作り、ナチスのユダヤ人虐殺計画にも抗議しなかった。権威主義を擁護し、自由と民主主義に反発することをずっと行ってきたのだ。
キリスト教は破壊的思想を持っている。トマス・ジェファーソンは「キリスト教が広まってからというもの、何百万という無実の人間が殺されてきた。しかし我々は今なお統一からは程遠い。圧政は何をもたらしたのか。世界の半分を愚者に、半分を偽善者にしてしまっただけである。そして全員が過ちや悪行を支持するようになった」と言った。
古代にはヒエラルキーがなくても秩序のある平和な文明があった。つまり人間が互いに傷付け合うのは人間性のせいではなく考え方のせいだ。寛容で平和な文化を持つ人々は、男女の神を崇め神は天にも地にも存在すると信じていた。それに比べて唯一至高の神しか認めないことは極めて閉鎖的であり、それが暴虐や蛮行を導いたのだ。
仏教
仏教は日本に入ってきた後、ビーフカレー仏教となった。
古代インド思想の特徴は生きることを苦しみと捉えたこと。虚無主義・快楽主義・唯物主義・苦行主義・決定論・懐疑論などの思想が生まれた。
唯物思想は精神などというあやふやなものはなく、物質があるにすぎないとするもので、後世マルクスも資本論の中でそう唱えた。
仏教では輪廻転生を説くが、この思想は以前からインドにあったもの。人間は永遠に死なず、現世での行いによって来世は六道の中のどれかに生まれ変わるという考え。
キリスト教では、人々を死の不安から救うために「最後の審判」というものを考え出し、それまで人間は死んだのではなく眠っているだけで、その時が来たら起こされて審判を受け、最終的に運命が決定すると説く。だから火葬せずに土葬をしてできるだけ肉体を残そうとする。
キリスト教では永遠の命を求めるが、仏教では逆に生きることから永遠に解放されたいと望んだ。生きることは苦しみであり、永遠に続く輪廻転生の輪から抜け出すにはどうすればいいのかを考えた。悟りを開いて抜け出すことを解脱といい、解脱すると転生せず死ねる。そのために修行している者を菩薩といい、解脱した者を仏陀あるいは如来と呼ぶ。ブッダは音訳、如来は意訳である。
南無とは「あなたに帰依します」という意味。
鎌倉時代に様々な新興仏教が生まれた。日蓮宗もその一つだが、他の宗派と違うのは日蓮という僧の名前が付いていること。他にそんな例はない。日蓮は法華経が唯一最高の経典であり、その教えが真の仏教であるとし、他の宗派はすべて誤りだとした。日蓮は「念仏無間」「禅天魔」「真言亡国」「律国賊」と言っている。それはキリスト教のように異端を認めない厳しい宗教であった。ところで法華経の中には悟りを開く方法については書かれておらず、書かれているのはいずれ法華経の聖者である上行菩薩がこの世に生まれ、教えを広めるということだけである。そこで日蓮は自らを上行菩薩であると信じた。そのために日蓮自身が信仰の対象となり宗派に彼の名前がついた。しかし他宗派は彼を菩薩として崇拝するなどとんでもないとして迫害した。
神道
もともと神道は多神教であるが、キリスト教に対抗するため無理矢理一神教的に強化したものが「国家神道」である。そのため一神教の影響をものすごく受けている。国家神道はとても愛国主義的・排他的・独善的である。もしキリスト教国に占領されてしまえば、古来の伝統文化も破壊されて南米のように奴隷になってしまう危険性があったからだ。そのため神仏分離令を出し、神社をすべて国家の統制下に置き、国家機関として神を祭る地位のトップに天皇を据えた。これはローマ法王に対抗するためである。
神道は邪神をも祭りなだめることで善神に変化させようとする。そのため神道は徹底した性善説に基づいていると言っても良い。
卑弥呼は名前ではなく称号である。「日の巫女」の意味だろう。言霊信仰により使者が女王の本名を明かすはずがなく、「ヒミコ」と称号で答えたので中国側が名前と思い込み、他民族を蔑む習慣から卑賤な字を当てたものである。
怨みを作らないことが神道では最重要課題である。
日本の歴史学者は日本が無宗教であるという前提に立って分析・解釈している。
戦国時代にキリスト教が伝来し布教されたが広まらなかったのは、幕府による禁教令が出たこともあるが、それ以上に日本人の中に一神教の原理を受容できない素養があったからである。
明治維新以降、国家神道が形成される中で国家に属さない独自の神道を目指す公認された団体があった。それを「教派神道」と言う。黒住教、天理教、金光教などがある。しかし大本教だけは、教主の出口王仁三郎を神とし、天皇の神聖さを否定したため厳しく弾圧された。
日清・日露戦争は決して侵略戦争ではないし、大東亜戦争も自衛戦争であった。日露戦争の勝利によってアジア人が初めて白人キリスト教帝国を打ち破ったことが、その後のアジア諸国独立の道を開いた。
靖国とは「国を守る」という意味。全国の護国神社の頂点に靖国神社がある。戦いの中で国家のために死んだ人達を天皇・国家の名において祭っている。
