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皇紀2685年(2025)6月

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「キリスト教 封印の世界史」ヘレン・エラーブ 2

 教会は古代多神教の伝統を引き継ぐ魔術師をサタンとして破門し、迫害し始めた。悪魔は一神教に特有のもので、そもそも多神教に悪魔は存在しなかったのだが、魔女を信じない者は異端者とされた。新手の異端審問としての魔女狩りで教会は莫大な利益をあげた。

 何でも魔女のせいにされた。そして魔女狩りはカトリック教国(イタリア・スペイン等)よりもプロテスタント教国(ドイツ・スイス・フランス・ポーランド・スコットランド等)で盛んに行われた。

 地上に神の力が存在するはずがないから魔術は悪魔の所業であり、教会への反逆であると考えられた。プロテスタントは十字を切る、聖水を撒く、聖人や守護天使に救いを求めるといった護身の術が既に廃止されていたので、魔術から身を守るには魔女を殺すしかなかった。

 キリスト教は狂っている。古代多神教の伝統を引き継ぐ魔術師をサタンとするなら、日本の神官はサタンであり、天皇はまさにサタンの王に該当する。キリスト教徒は内心いつかは天皇を処刑し、日本をキリスト教国にしてしまいたいと狙っているのだろう。

 教会は、人々を治療して感謝されている魔女が殺されるのは、そもそも人間は自分の運命を決める権限を持たないし、健康は神から授かるものであって、人間が努力して得るものではないからだと説明した。

 キリスト教は人間を自然から遠ざけた。神は遥か高い天上にいて地上は悪魔の領土でしかないので、自然を敬うことをしなくなった。古代において自然を敬うことは神を敬うことであったが、正統派教会は、神は人間と自然を敵対するようにしたのだと言う。アダムが善悪を知る禁断の木の実を食べてしまったために地が呪われ、人間は苦しんで地から食物を取って生きてゆかなければならなくなったのだと言うのだ。因みにギリシア神話の豊饒・多産の牧神パン(Pan)は教会によって悪魔像のモデルとされた。パニック(Panic)の語源となった。

 地上は悪魔の領土でしかないので、自然を破壊しまくってきたのかキリスト教徒は。このままでは地球はキリスト教徒に破壊され尽くしてしまう。早く地球上からキリスト教徒を撲滅してしまわなければならない。地球が破壊されるのが早いか、キリスト教徒を撲滅してしまうのが早いか。

 自然界に神はいないという考えから動物の扱いにも変化が生じた。その生死は人間に委ねられ、悪魔の手先として宗教裁判にかけられることも多かった。それらは拷問され処刑(主に絞首刑)された。しかしネコ・オオカミ・ヘビ・キツネ・ヒヨコ・ニワトリを殺しまくった結果、ネズミが大量発生しペストの流行に繋がった。

 自然崇拝を止めさせるのは至難の業であると悟った教会は、逆に取り込むようになった。キリスト教の肖像画や写本の装飾に豊饒神が登場するようになり、あの牧神パンも利用された。また異教の季節ごとに定められた祝日にキリスト教の祝日を設定した。キリスト教に馴染みやすくするためだった。しかし宗教改革時代になると自然崇拝的な要素は徹底的に取り除かれるようになり、いつしか人々も祝日の本来の意味を忘れていった。

キリスト教にとって自然は征服すべきものであって、崇めたり祝ったりするものではなかった。

 従来時間は循環するものと考えられていたが、宗教改革以後、教会は時間を直線的に経過するものだと考えた。輪廻説も時間の循環説もイエスの唯一性と究極性を否定するものであり、教会にとって都合の悪いものであった。もし時間がぐるぐると回り何度でも生まれ変われるのであれば、誰もがイエスのように復活できることになり、使徒継承(イエスの復活に立ち会った使徒から教会の権威が敬称されてきた)の主張や、ヒエラルキーが成り立たなくなってしまうのだ。さらに人生が一度きりでなければ、地獄に落ちることを恐れる必要もなくなり、人々を操りにくくなるからだ。1657年の振り子時計の発明が教会の教えを後押しすることとなった。

 教会は人間の自然な面までも否定した。「セックス・出産・肉体」を必死で遠ざけ、死だけに注目した。死は人々に恐怖を植え付けて操る道具であった。死は自然的なものではなく神が下した罰であった。だから人間は最後の審判の日を恐れ、地獄に怯え、信仰を尽くすことで、死を克服すべきものであるとした。

 教会はキリスト教という武器を使って世界支配を企む秘密結社のようなものだな。ユダヤ人の陰謀はよく聞くが、キリスト教会の陰謀の方がよほど進捗している。世界支配を巡ってキリスト教会とユダヤ国際銀行家たちは対立しているのか。

 宗教改革以前、教会は煉獄というものを考え出し、金集めの手段としていた。死んでもいきなり天国か地獄へ行くのではなく、その前に煉獄という場所に行き、そこで悔い改めて罰を受ければ天国に行けるというものである。献金すれば教会の力で天国に行けると説いたのだ。しかし宗教改革以後は死を自然的なものとして扱うことが一切禁止された。死んだら煉獄に行くという考えも否定された。死んだらすぐに裁きを受け天国か地獄に行くとされ、葬儀も地域の重大な行事としてではなく、家族だけで行うものに変わっていった。

 死への関心はキリスト教徒の世界観に影響を与えた。地上に霊的なものなどないと信じた信者達は、世界の終末を心から望むようになった。世界が滅びた途端に神が再び地上に現れる、と期待した。終末思想はその後も周期的に登場した。

 キリスト教徒が世界の終末を心から望むのであれば、与えてやればいいではないか。全世界のキリスト教徒に死を。

 神が地上に存在しないことから、思想家達も教会を頂点としたヒエラルキー・統治・闘争の必要性を唱えたが、21世紀が近付くにつれてそれらの考え方は疑問視されるようになっていった。

 17世紀の思想家達はまだ天地の創造主は神だと信じていたが、神が地上に存在せず不思議な力を発揮することがないのであれば、悪魔も存在せず魔術もないはずだと考えるようになり、宇宙は神の干渉を受けることなく、合理的な法則に従って機械的に動いているのだと考えるようになった。

 教会と近代科学者は物質界に神聖なものなど存在しないという点では一致していた。また近代哲学者も現実はたわいもない偶然の出来事から成り立っているのであって、大きな意識によって意図的に生み出されたものではないと考えた。

 統治・闘争の必要性もダーウィンの進化論によって証明された。自然界は壮絶な生存競争の場であり、競争がなければ自然界の秩序は乱れてしまうと考えた。教会も統治と闘争がなければ神が定めたヒエラルキーを守れないと考えていた。ダーウィンは、人間は生存競争を勝ち抜き人口を増やしたが、さらなる進化を望むなら激しい戦いを続ける覚悟がいる。さもないと怠惰に溺れ能力のある者がない者に生存競争で負けてしまうだろうと言った。

 自然界は壮絶な生存競争の場であり、競争がなければ自然界の秩序は乱れてしまい、神が定めたヒエラルキーを守れない。この考えがキリスト教徒の世界中で戦争をし続ける理由か。
  近代思想と教会の教えは矛盾もしていたが一致していることの方が多かった。

 ダーウィンは教会に反抗する気はなかったが、進化論は無心論者に利用された。無心論は魔女狩りの残虐性への反発から流行したもので、信仰心などなくても良心も道徳も保つことが出来ると主張した。これは教会にとって脅威となった。

 近代思想家により証明されてきた機械論的・決定論的な宇宙の原理や法則は、近年の量子力学上の発見によって矛盾していることがわかってきた。原子以下の粒子レベルでは証明できないのである。物理学者スティーヴン・ホーキングは、一つの粒子の位置と速度の両方を同時に正確に知ることは出来ないという「不確定性原理」によって、宇宙の現在の状態でさえ精密に測定できないのだから、未来の出来事を正確に予測できるわけがないと主張している。

 量子力学によって、物質が完全に無生命で無反応の存在ではなく、物質界が「心的」であり「物的」でもあることが証明された。こうした発見によって、精神と物質の分離説は否定された。

 キリスト教的なヒエラルキーに当てはめる考え方も見直されている。要素を分析するだけではなく、要素の全体的な繋がりも合わせて考えることがより真理に近付けると考えられるようになった。

 闘争が不可欠なものとしたダーウィンの進化論も見直されている。ガイア説によれば、生物にはより良い環境を作るために互いに助け合って生きる習性があるという。つまり統治・闘争・競争だけでは秩序や発展は望めないとしている。

 ここは共産主義思想と違っている。共産主義では階級間の対立闘争を理想社会実現の手段としているからだ。また、ガイア説は日本の和の精神に通ずるものがある。その和の精神は神道を元に生まれてきた。

 ヨーロッパの医者も人間の身体は機械だとみなし、精神や意識から分離されていると考えていた。だから身体の自然治癒力を引き出すなどということは考えもしなかった。

 商工業においても宗教的なヒエラルキーを真似てピラミッド型の組織を作り、恐れと競争原理を採用して統治し、また、まとまりを良くするため同人種・同性・同宗教者を集めた。しかしそれらが必ずしも効果的とは言えなくなって来た。

 政治においても個人の意思を尊重する多元的社会では唯一至高神、ヒエラルキー、原罪の継承といった教会の教えは合わなくなってきた。例えば、アメリカの民主主義政治は神が定めた国家にふさわしくないとしてピューリタン達を困惑させている。彼らは人民が統治者になるというならいったい誰を統治するというのかと憤る。しかし1796年ジョージ・ワシントンは「アメリカ合衆国政府はいかなる意味においてもキリスト教に基づいてはいない」と書き記している。教会はアメリカが宗教の自由を認めていることに反発を繰り返した。さらにプロテスタント各派も反発していたが、ワシントンやジェファーソン、マディソンらは必死に教会と国家を分離しようとした。

 因みに教会は13世紀にマグナカルタの制定に反対し、異端審問時代に全体主義国家の先例を作り、ナチスのユダヤ人虐殺計画にも抗議しなかった。権威主義を擁護し、自由と民主主義に反発することをずっと行ってきたのだ。

 キリスト教は破壊的思想を持っている。トマス・ジェファーソンは「キリスト教が広まってからというもの、何百万という無実の人間が殺されてきた。しかし我々は今なお統一からは程遠い。圧政は何をもたらしたのか。世界の半分を愚者に、半分を偽善者にしてしまっただけである。そして全員が過ちや悪行を支持するようになった」と言った。

 古代にはヒエラルキーがなくても秩序のある平和な文明があった。つまり人間が互いに傷付け合うのは人間性のせいではなく考え方のせいだ。寛容で平和な文化を持つ人々は、男女の神を崇め神は天にも地にも存在すると信じていた。それに比べて唯一至高の神しか認めないことは極めて閉鎖的であり、それが暴虐や蛮行を導いたのだ。

 キリスト教と共産主義はそっくりだ。その破壊性、排他性で多くの人を殺したにもかかわらず、人を幸せにすることはできなかった。