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皇紀2685年(2025)5月

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逆説の日本史 1/井沢元彦

 和の精神は、話合いで約束したことは絶対に守るという大前提があるから成り立つ。だから外国人には通用しない。

 日本人が異教徒を差別しないのは、日本人を脱宗教化させた信長のお陰である。信長は反抗する宗教信者を虐殺したが、信仰の自由は認めている。むしろ異端な考え方を一切認めない排他的宗教こそヒトラーやポル・ポトを生むのである。

 中国人や朝鮮人が滅多に自分の過ちを認めず謝らないのは、王朝交代の度に「九族皆殺し」の歴史があったからだ。

逆説の日本史 2/井沢元彦

 キム・ワンソプは「親日派のための弁明」の中で、李王朝の閔妃をそれまでと違う視点で書いたところ、閔妃の子孫から名誉毀損で訴えられ逮捕されてしまった。子孫が先祖の名誉を傷つけた者を訴えても良いという法律が韓国にあるからだが、これが儒教国というものであり、こんなことではまともな近現代史など書けるわけがない。
 因みに日本では、死者に対する名誉毀損は虚偽の場合に限定され、真実の場合には処罰されない。被告人が真実であると主張した場合、検察官は虚偽であることを証明しなければならない。また、過失による名誉毀損の場合は処罰規定がない。

 勝海舟が長崎で海軍術を学んだ時、オランダ人教師カッテンディーケは、「日本人の最大の欠点は、武士以外の人間に国を守るという意識がないことだ」と日記に書いている。それは秀吉の刀狩り以来、町民や農民に国防意識がなくなってしまったからだ。

 これは現代人にもあてはまるのではないか。戦後GHQの占領政策によって一般庶民は愛国・国防精神を骨抜きにされてしまったのだ。昭和の武士と言うべき軍人が力を失い、元々皇室に対する尊崇の念や愛国心の乏しい町民や農民が主権者となったことで、戦後政治はやることが支離滅裂で迷走しっ放しだ。

 戦争あるいは侵略は絶対悪ではない。戦争は様々な側面を持っており、悪を封じるために必要な場合もある。

 朝鮮は永らく中国の属国であり、清に隷属していた時期には清の年号を用い、毎年金銀と女を献上していた。独立国家となったのは1895年下関条約によって、日本が清に認めさせて以来である。チェ・ケイホは「韓国堕落の2000年史」の中で、「李朝では権力の座に座った者が暴虐の限りを尽くしたせいで、民衆は過酷な社会で生き延びるために偽ることを日常の習い性としてしまった。例えば商人は役人を欺くため「買う時に売る、売る時に買う」と反語を用いた。その発想が現代でもはびこっている」と言っている。

 朝鮮は北も南も洗脳国家であり、反日教育を行っている。それはまさに戦争行為である。

逆説の日本史 3/井沢元彦

 キリスト教は強い宗教であり、自らを絶対の正義とする。そのため異教徒と戦争を起こす。日本は信長のおかげで宗教戦争が無くなった。

 明治政府は開国後の西洋による精神的支配を防ぐため、キリスト教に対抗できる強い宗教的バックボーンとして、国家神道を形成した。

 歴史の捏造・粉飾の原理は「実際に~である」ではなく、「~であらねばならない」とすることだ。

 日本や西欧では悪人でも死後は平等に扱う文化があるが、儒教国の中国や朝鮮では悪人の埋葬も慰霊も許さないということが靖国問題の背景にある。中国や朝鮮は、互いの思想・宗教が違っても尊重し合うという民主主義の原則がわかっておらず、その上思想・言論の自由がないため、自分の考えを押し付けることを当たり前と思っている。

 儒教は農民の哲学であるため商人を差別した。また朱子学は儒教の中で最も保守的である。

 天台宗や真言宗などは国家鎮護を教義とする。そのため徳川家は本来浄土宗であったが家康の天下統一後は天台宗も信仰し、江戸の鬼門に東叡山寛永寺(天台宗)、中心に増上寺(浄土宗)を建立した。

 近代資本主義が発展するためには金融制度、法体系の整備、平和で安定した社会が必要であるが、最も必要なことは「利潤・利息の正当化」である。キリスト教プロテスタントが初めてそれを行ったが、日本人は独自の道を辿ってそれに至った。
 禅に「すべての労働は仏行(修行)に等しい」という教え(江戸初期禅僧:鈴木正三)があり、それが日本に資本主義の精神を芽生えさせた。しかし儒教の本場中国や、中国以上に骨の髄まで儒教に毒された朝鮮では、労働を軽蔑し商売を悪と捉えたため、資本主義の精神がまったく芽生えなかった。仮に職人として名工になっても卑しい職業であるため子に後を継がせず、官僚(士大夫/したいふ)にしようとした。だから老舗というものがない。まさに官尊民卑であった。朝鮮が発展し始めたのは日本に併合されてからのことである。中国では改革開放後に資本主義経済が取り入れられたが、商工業は所詮賤業であり悪であるので、粗悪品であろうと手っ取り早く儲かれば良いという、倫理無き資本主義となってしまっている。

 相互信頼を象徴するものが為替業の発達である。商売を蔑視し、利潤・利息が正当化されていない儒教社会では発達すべくもない。儒教では貴穀賤金(きこくせんきん)なのである。

 学者は真実を追求するものだが、儒学は真実より理想を求める。だから学問ではなく宗教でありイデオロギーである。そのため儒教と呼んでいる。儒教は真実より理想や正義を求めるものなので、歴史も自分達に都合良く歪曲する。日本も江戸中期から儒教の影響を受け始め、明治以降の皇国史観の形成へと繋がり、昭和20年の敗戦の悲劇を招いた。しかし朝鮮は今でも儒教に毒されたままで、その思想の根源は日本の皇国史観と何ら変わりがない。

 儒学は真実より理想を求める。これがシナ人や朝鮮人の本質を突いている。儒教の害毒であり、近代化を妨げる決定的な原因だ。現実を素直に認めない儒教は、確実に不幸をもたらす。
 儒教は中華思想が基になっている。しかし野蛮としていた夷狄に征服・支配されるに及んで最高・最強ではなかったという現実から目を背け、何事も事実を歪曲して自分達に都合良く解釈するようになった。
 日本も大東亜戦争の敗戦によって皇国史観が否定され、精神が屈折してしまったのかもしれない。その後遺症が今も続いているように思う。
 日本人は「みんなで話し合って仲良くしよう」とするが、内容の合理性よりも和を保つことを重視することが問題だ。だからすべてにおいて談合社会と言える。
 これが日本人の持つ病巣だ。現実を直視せず、合理的に対処しない。これでは外国との競争に負けるのは当然だ。

 儒教徒は自分が儒教の信仰者だという自覚がない。学問(儒学)と捉えているからである。

 日本は縄文文化(血を流しても良い文化)と弥生文化(血を流すことはケガレと捉える文化)の対立があり、そこから「手を汚す仕事(政治・軍事・警察)は身分の卑しい武士にやらせておけばいい」という発想が生まれてきた。そういう宗教的背景が部落差別にも繋がっている。

儒教は武士を含めた日本人の道徳規範とされた。

 共産主義がうまくゆかないのは神も宗教も否定するからだ。神がいないとなると人は陰でいくらでも不正をやらかす。人の監視には限界があるからだ。しかし神を信仰している者は決して神の目はごまかせないという信念があるから、人目がなくても不正を行わない。だから誠実な社会が実現する。それが建設的な社会を創り出し、産業が栄え、強く豊かな国を作る。それがキリスト教国で起きた奇蹟であり、日本教国で起きた奇蹟である。