ルーズベルト秘録 2
■VENONA KGB電文解読資料
コミンテルンはルーズベルトを支持していたため、米共産党からは大物の大統領候補を出させず、ルーズベルトを当選させて二期目を勤めさせようとしていた。ルーズベルトは妻のエレノアに「戦後は社会主義的な世界になる」と予測し、スターリンが「米国とソ連がいずれ立場を同じにする」と話したことに希望さえ抱いたと言う。しかしニューディール政策と共産主義は相容れなかった。共産主義の本質は革命であり憎悪を基礎とするが、ニューディールは改革であり希望に根ざしていた。そしてニューディーラーは共産主義の危険性を見抜けなかった。
戦前戦中を通じて日本は米ソにとってアジア方面最大の脅威であった。H・フーバー大統領時代に満州事変を起こした日本に対して、九ヶ国条約違反を盾に「侵略による領土の変更を認めない」というスティムソン・ドクトリンを出したが、ルーズベルトはこの政策を引き継ぎ、日米開戦止む無しとした。そして周囲の忠告を遮って次のように言った。「私の先祖は中国貿易に従事したことがある。だからいつも中国人には親しみがある。そんな私が日本をやっつけようというスティムソンに同意しないわけがないではないか」。ルーズベルトの母方の家系であるデラノ家は香港を中心にアヘン貿易で巨万の富を築いたのである。
H・フーバーは外交と国際世論による説得を望んだが、スティムソンは経済制裁で日本軍の侵略を阻止できると信じていた。フーバーはそれが戦争行為だとして明確に反対したがスティムソンは納得しなかった。
ルーズベルトはハーバード大学時代に居合わせた日本の留学生松方乙彦から聞かされた日本の「100年計画」を現実のものだと信じ、日本に対して警戒心を高めたとされているが、100年計画などというものが本当にあったのか疑わしい。ハーバード時代といえば松方は22才であり、いくら日本の有力武家の出身と言えども国家的機密を知るはずがない。また、ルーズベルトには作り話をしたり話に尾ひれを付ける悪い癖があると言われていた。実は当時「田中メモリアル」というまことしやかな日本の世界支配計画なるものが出回っており、100年計画もこれから引用されたものと考えられる。因みにこのメモリアルは戦後偽造であると断定された。
ルーズベルトは中国をキリスト教化して民主国家の巨大市場にしようと企んでいた。
ルーズベルトは「中国の赤い星」を書いたエドガー・スノーとの会見で次のように語っている。「今次の戦争で植民地主義は消滅するだろう。その先駆的役割を果たした日本は必要悪だったと言える。しかしそれがわからなかった欧州諸国は恥じるべきだ。それにしても私は日本人に偏見があるようだ。祖父は中国貿易に従事し中国人が好きになったが、日本人は大嫌いだったからだ」
戦後中国に裏切られた米国は悪の帝国と呼んでいた日本と逆に友人になったが、日本脅威論は現代でも息付いており、経済摩擦が起きた時にもジャパンバッシングの狼煙を上げたのはチャイナハンズの一人セオドア・ホワイトだった。
ルーズベルトは宣戦布告もせぬまま中国にB-17大型長距離爆撃機500機を提供し、中国軍機としてアリューシャン列島から日本を空爆する案をモーゲンソーに提案していた。また中国東部や南部から日本を空爆するため米兵パイロットを形の上だけ一旦退役させ中国軍に雇用させるという方法を提案した。しかし軍から爆撃機はヨーロッパ支援にまわす必要があると反対され、戦闘機100機を派遣するだけとなった(フライング・タイガース)。
第一次大戦におけるドイツ潜水艦による英客船ルシタニア号への魚雷攻撃はこっそり弾薬を運送していたためであり、第二次大戦の米駆逐艦グリーア号への魚雷攻撃は英哨戒機と共にドイツ潜水艦と戦闘中の出来事であった。しかしルーズベルトはグリーア号が郵便輸送中に突然攻撃を受けたように発表した。このようにルーズベルトは対独・対日参戦の口実作りのために国民を欺き続けた。
ドイツの科学者オットー・ハーンが世界最初の核分裂実験に成功した報を受けたユダヤ人科学者達(レオ・シラード、アインシュタイン、フェルミ、テラー等)は、ドイツに先んじて原爆開発をするようルーズベルトに働きかけた。このように当初はユダヤ人排斥に対するドイツへの復讐心から開発されたものだが、それがドイツの敗戦で日本に投下されることになった時、ユダヤ人開発者達は道徳面から投下しないようトルーマンに訴えている。日露戦争でユダヤ人ヤコブ・シフが日本を支援したのはロシアにおけるポグロムに対する復讐のためであったと伝えられているが、皮肉なことに原爆は日本に投下された。
コーデル・ハル国務長官はルーズベルトの指示で「暫定協定案」を作成しており、それを日本に提出する手筈になっていた。しかし提出日の前日にルーズベルトの命令によって内容は最後通牒にも等しい厳しい内容に変えられ、ハル・ノートとして提出することになった。その内容に対してハルは「プライドが高く力もある民族に最後通牒を与えてはいけない。日本が攻撃してくるのは当然だ」と憤っていた。
ワシントンの日本大使館に勤務する一等書記官寺崎英成の動向を探った「寺崎ファイル」240ページの内16ページは公開されていない。日本がアメリカに宣戦布告電文を送った時、大使館職員は寺崎のブラジルへの異動のために送別会を開いており、そのせいで宣戦布告文をアメリカに渡すのが遅れてしまい、真珠湾攻撃を騙し討ちだと非難されるハメになったと言われるが、未公開の16ページの中にその汚名をそそぐ記述がある可能性が高い。その証拠にアメリカは未だに公開を認めていない。
真珠湾での米国人死傷者数3,370人。真珠湾攻撃を騙し打ちだとプロパガンダによって日本を一方的に非難したルーズベルト政権であったが、当初議会は日本軍の攻撃を未然に察知できず甚大な被害を蒙ってしまったふがいない軍部の落ち度を糾弾していた。
日本の真珠湾攻撃によってアメリカは孤立主義を維持できなくなり、それ以後果てしなく海外の戦争に積極的に関わってゆくのである。
チャールズ・リンドバーグは「何のための戦争なのだ。この戦争によって何が得られるのか未だにはっきりしない。民主主義と自由を世界に広げるというが、我々には言葉だけのように聞こえる。実際米国でさえ真の民主主義も自由も達成できていないではないか。戦争に深入りすればするほど実は民主主義と自由から遠ざかることになる」と言っている。
アメリカはドイツに対してユダヤ人という理由だけで拘束したことを非人道的な行為として強く非難しておきながら、日系米国人を日本出身というだけで強制収容所に閉じ込めたのである。しかもその扱いも酷く、ロジャー・ダニエルズ編纂「日系米人、その強制移住と補償問題」によると、病人であったがために他の日系人と別れて先にトラックで収容所に届けられた二人が、担架で到着するや警備員のクラレンス・バールソン上等兵に有無を言わさず射殺されてしまった。それを所長も処分しなかった。後から到着した家族が二人の消息を尋ねたところ、所長は「逃げようとしたので射殺した」と説明しただけであった。こんな死のエピソードは数えれば枚挙に暇がない。しかしより深い問題としては米西海岸で黄禍論の対象となるほど存在感のあった日系人社会が、戦後復活しなかったことである。収容所から解放された日系人は砂に撒かれた水のように全米に消えてしまった。これはドイツ系ユダヤ人が戦前のような存在感をなくしてしまったのと似ている。
ルーズベルトに日系人の無差別強制収容を命じられた司法長官フランシス・ビドルは、大統領令が発せられる前に、この措置は日系人の農地を手に入れようという謀略が絡んでおり、日系人には国家転覆のような危険な兆候はみられないとアドバイスしているが、ルーズベルトは側近の反対を無視してまで強制収容に踏み切った。
日系人の解放が迫った1944年暮れには、国務長官代行エドワード・ステティニアスに日系人をできるだけ各地に拡散させる必要があるという覚書を渡していた。これが米西海岸において日系人社会が復活できなかった理由だろう。
父がドイツ系ユダヤ人でドイツを生涯憎み続けた財務長官モーゲンソーは、真珠湾攻撃後に日系人商店のアルコール販売ライセンスを全て取り上げるなど徹底した差別政策を取ったが、ルーズベルトが日系人全員を強制収容所送りにすることを主張した時、意外にも強く反発している。「日本人を強制収容所に放り込みたいそうだが私はそんなことに加担したくない。15万人もの日本人を総ざらいし、どんな人間なのか考慮せずに鉄条網の向こうに閉じ込めるとは呆れ果てる。これではあのドイツ人達と同じではないか。我が国を害する輩を捕まえるのは賛成だが、無差別の拘束はダメだ」
しかしルーズベルトは日本人の頭蓋骨は劣勢血統のため十分に発達しておらず邪悪な行為に至っていると言ってのけ、アジア人はインド人や欧州人と混血させ人種融合を図る必要があると言いながら、日本人だけは日本列島に閉じ込めておけと言った。またドイツ人に対しては、ドイツ人を去勢するかそれに近い方法を考え、二度と過去のような行いができないようにすべきだと言った。
日本軍は真珠湾攻撃の後フィリピンの米軍基地を攻撃し、駐機していた多くのB17や戦闘機を破壊した。米軍兵士達は日本軍の猛攻の前に前線を放棄し逃亡してしまった。極東軍司令官だったマッカーサーは責任を問われ、ルーズベルトもそんな彼を侮蔑していた。この屈辱経験がマッカーサーをフィリピンに戻ってきた時に感激のあまり泣かせたのである。
真珠湾攻撃の後、ハワイでルーズベルトとニミッツ、マッカーサーは会っている。しかしこの頃マッカーサーは次期大統領選に立候補しようと共和党と接触していた。それを察知したルーズベルトは日本攻略に対してニミッツの提案する飛び石作戦より、マッカーサーの提案するフィリピン経由作戦を採用した。マッカーサーのこだわる作戦を採用することで彼のメンツを守ってやり、また彼を現役の将軍のままにしておくことで立候補を阻止しようとしたのだ。この件では二人の間にどうやら裏取引があったらしい。
マニラに戻ったマッカーサーは感激の余り泣き出してしまった。フィリピンを追われた屈辱が3年間彼を苦しめていたのだ。そして山下将軍の裁判ではたった35日間で審議を終え、4千ページにも及ぶ陳述書と423点もの証拠物件が提示されたにもかかわらず、判決は46時間後に下された。判決は明らかに意図的であった。山下将軍の弁護士フランク・リールは不当判決に怒り米最高裁に判断を仰いだが、10人の判事は「裁判手続きは適正を欠いたもの」という点では一致しながら、「軍事法廷に介入する権限がない」との判断を出した。しかしあまりにも露骨な復讐心に判事らは、「法的手続きの体裁をとって敵に向けられた復讐は、残虐な行為よりはるかに大きな禍根を残すだろう」と付帯文を添えた。
フィリピンを追われたことで司令官として屈辱を感じていたマッカーサーは、日本の占領軍司令官になれるとは思っていなかった。彼より太平洋海戦で実績を上げていたニミッツが選ばれるだろうと予想していたが、意外にもルーズベルトによってGHQ司令官に指名された。大統領選が関係していると見られている。しかしルーズベルトの死後大統領となったトルーマンは、マッカーサーは軍歴を見ても失敗ばかりで決して優秀な英雄などではないと不満を漏らしていた。