全体主義と個人主義の狭間で
普遍的な概念としての「人間」は存在するのかしないのか。存在すると説くのが実在論、存在しないと説くのが唯名論です。その論争を普遍論争と言い、11世紀から始まっています。
実在論では、例えばアダムとイブの原罪はすべての人間が共通に持っているものということになります。そのため実在論の行き着く先は全体主義です。しかし共同体意識も実在論から生まれます。
唯名論では、人間とは単に呼び名に過ぎないのであり、原罪はアダムとイブだけのものということになります。そのため唯名論の行き着く先は個人主義です。しかし共同体意識は失われてしまいます。
つまり共同体意識も個人の自由意識も必要なことなのですが、どちらかに偏ると社会全体がろくでもないものになってしまいます。現在は明らかに唯名論に偏っています。LGBTの権利を求める騒動などはその一例で、個人の自由意識が暴走してしまっているのです。そのため私たちは常にその狭間で良好なバランスを保つよう努力し続けなければなりません。
自由と平等の間にある相関関係
評論家で「新しい歴史教科書をつくる会」初代会長の西尾幹二氏は、次のように仰っています。
我々の生きる近代世界では自由と平等の間に相関関係があります。自由が行き過ぎると力が一部に傾き、強い者への偏重が起こり格差が生じるので、これを是正するために平等への欲求が強まり、補正が図られることになります。逆に平等が行き過ぎると全体が無気力になり、サボタージュが広がり、弱い者の有利さばかりが目立つようになるので、これを是正するするために自由競争の復活が求められることになります。こうして自由と平等の間をバランスを求めて振り子のように往ったり来たり揺れ動いているのが、我々の生きている通常の世界です。
アメリカの奴隷とプアホワイト
アメリカは奴隷を恐れていました。独立戦争前はそういう状態でした。インディアンも怖いし黒人も怖かったのです。それをどうやって統治するかということが初期の入植移民たちにとって頭痛の種でした。インディアンは奴隷としてはうまく使えませんでした。勇猛果敢で現地で自治組織を持っていた人々であり、倫理意識も高いし気質も立派だったためです。そこでインディアンを諦めて黒人を利用するようになったのですが、そのうちヨーロッパから労働人口としてプア・ホワイトがたくさん入ってきて彼らを使役するようになりました。しかしプア・ホワイトが黒人と手を結ぶことが恐怖でした。つまり反乱が怖かったのです。そういう記録がたくさんあります。それで考え付いたのが両者の分離策でした。プア・ホワイトの人種と諸権利を認め、黒人と分けてしまうのです。そこでプア・ホワイトと支配層の間に「平等」という概念がアメリカで初めて出てきます。あの独立宣言の美しい言葉、自由と平等がこのようなご都合主義から出てきたことは紛れもない事実です。またかつての宗主国イギリス政府に対して主張する必要もありました。
アメリカ人に国際社会など存在しない
アメリカ人は国際社会など存在しないと思っています。アメリカが世界であり、他国はやがてアメリカに飲み込まれて支配されるものと思っています。これは中国人の中華思想と同じです。中国だけが文明の華咲く世界の中心であり、世界は中国にひれ伏すものと考えています。ここに両者の共通点があり、どちらもグローバリストなのだということです。