支那事変は戦争ではない
盧溝橋事件に続く支那事変は日支双方共に宣戦布告をしていないので戦争ではありません。だから「事変」と呼んでいるのです。「日中戦争」という呼び方は戦後の東京裁判以降のことです。
日米戦争を始めたのはアメリカ
日米戦争を始めたのはアメリカです。アメリカという国はその東海岸から西進を続け、太平洋を渡ってアジア諸国を侵略してきましたが、アジアを抑えるために力を付けてきていた日本を叩いておく必要を感じたのです。
フライング・タイガース
アメリカは日米開戦の前年である1941年に、「フライング・タイガース」という100機のカーチスP40戦闘機部隊を重慶に差し向け、米陸軍飛行士が操縦して日本軍と戦いました。これは明らかに国際法違反であるにもかかわらず、F・ルーズベルトはこの作戦に署名していました。日本軍の真珠湾攻撃以前に宣戦布告なしの先制攻撃を行ったのはアメリカの方なのです。
ロバーツ委員会報告
焚書された来栖三郎の「日米交渉の経緯」という本によりますと、この委員会は日本軍による真珠湾攻撃を事後検証するために設置され、検証結果を報告したものです。そこには図らずも米国の野望が暴露されており、いかにして日本が戦争に引きずり込まれたかが書かれています。その上で来栖は日本は例え勝算が薄くても、敢えて受けて立たなければ東亜はアメリカの植民地になってしまうだろうと書いています。来栖三郎は日独伊三国同盟を調印した日本の外交官。
米英が日本を戦争に追い込んだ
アメリカには日本に対して戦争を仕掛ける強い意志があったので、計画に従い予定の行動を取っただけだという認識は、ロバーツ報告書以外にも戦争中からアメリカ国内にはありました。1942年にサタデー・イブニング・ポスト紙面で下院議員ジャネット・ランキンは「F・ルーズベルトとチャーチルが共謀して日本を経済封鎖することにより戦争に追い込んだ」と語り、海軍のクレランス・E・ディキンソン中尉は、「1941年11月28日に真珠湾を出航した折、航空機や艦船を見つけしだい砲撃せよとF・ルーズベルトから命令されていた」と、宣戦布告なき対日攻撃を証言しています。またハリー・エルマー・バーンズは1955年8月のリベラシオン紙面で「F・ルーズベルトは12月7日以前にハワイの現地司令官に日本軍の攻撃を知らせないよう画策した」と報告しています。
これらの事例は1993年に出版されたD・デリンジャーの、「アメリカが知らないアメリカ」という本の付録に掲載されたものですが、出版に際しては検閲のせいで苦労したことを吐露しています。1990年代においてすらこうなのですから、アメリカにおける「リメンバー・パール・ハーバー神話」に対するタブーの強さを感じます。しかし我々日本人はアメリカの不正義・不公正・非寛容が徐々に白日の下に曝されるのを待っているのではなく、積極的に解明して世界に訴えなければなりません。